斉物論篇(二十五)

 最後に、長梧子ちょうごしは言う。

「もし私とお前とが議論をしたとする。お前が私に勝ち、私がお前に勝てなかったとすれば、お前がはたしてであり、私がはたしてであることになるのだろうか。

 反対に、私がお前に勝ち、お前が私に勝てなかったとすれば、私がはたして是であり、お前がはたして非であることになるのだろうか。

 一方が是であり、他方が非なのであろうか。

 それとも双方が是であり、双方が非なのであろうか。

 このような是非の決定は、対立の関係におかれている私とお前とだけでは、到底くだすことができない。

 といって、このような対立をそのまま持ち込んだのでは、第三者の立場にある人間も、わけのわからぬ事態を引き受けることになるだろう。

 それでは、どのような人間に正しい判定を頼めばよいのであろうか。

 お前と同じ立場をとる人間に判定させるとすれば、これはお前と同じ意見なのだから、公正な判定ができるはずがない。

 といって、私と同じ立場をとる人間に判定させるとすれば、これは私と同じ意見なのだから、やはり公正な判定ができるはずはない。

 それでは、私ともお前とも違う意見をもつ者に判定させれば、どうか。

 その人間は、私ともお前とも意見が違うのだから、正しい判定をすることができない。

 といって、私ともお前とも同じ意見をもつ者に判定させれば、どうであろうか。

 その人間は、私ともお前とも意見が同じなのだから、やはり正しい判定をくだすことはむりだろう。

 とするならば、私も、お前も、第三者も、みな是非のあるところを知ることができないのである。

 これ以外のだれに、判定を期待することができようか。

 ここで、どうしても天倪てんげい── 差別を越えた自然の立場で和するということが必要になる。

 それでは、天倪をもって対立を和するとは、どのようなことをいうのか。

 世の議論では、是であるとする意見と、是でないとする意見が対立し、そうであるとする意見と、そうでないとする意見が対立する。

 もし、その是が真の是であれば、それは不是とは相容れないのであるから、不是とする議論は起こるはずがない。

 また、そのぜんが真の然であるならば、それは不然と相容あいいれないのであるから、不然とする議論は起こるはずがないのである。

 それにもかかわらず、そこに議論の対立が起こるというのは、その対立が気まぐれな主観から生じたことを示すものであり、そのような対立は真の対立ではなく、対立がないにも等しいのである。

 このような見せかけの対立を、天倪によって和合させ、自由無碍むげの境地のうちに包容することこそ、真に永遠に生きる道なのである。

 こうして、歳月を忘れ、是非の対立を忘れ、無限の世界に自在にふるまうことができる。

 これゆえにこそ、いっさいを限界のない世界── 対立のない境地におくのである。

 ── 長梧子、よく喋る、笑。

 途中から、ああ、こういうことを言おうとしているんだろうな、とは分かった。

 ちょっとつまずいた箇所もあったけれど、何回か読み直し、そのまま、あまり考えず、いや考えたが、そのまま読んだら、わかった、と思う。

 対立。むなしいものだよ。ほんとうに。確認するね。

 そうなんだよなあ。

 争うことのない世界、… 荘子の生きた戦乱の時代。

 平和と戦争。

 どっちが是で、どっちが非という、そんなものでもないんだろうな。

 平和を是とすれば、諍いが非となる。

 同じことだね。

 それを越える… ニーチェか。

 いや、超人、というほどのものでも…

 同じか。ゆきつくところは。