南伯子綦が、商の地である丘に遊んだ時、大木を見つけた。
それは世のつねの木とは、まるで違ったものであった。
四頭だての馬車千台でも、その大木の陰におおわれて、隠されてしまうほどであった。
これを見た子綦は「これは一体何の木だろう。これはきっと上等な材木がとれる木に違いない」とつぶやいた。
ところが、上を向いて、その小枝を見ると、拳のように曲がりくねって、棟木や梁にすることはできないし、うつむいて太い根元のほうを見ると、うつろになっていて、棺桶をつくることもできない。
その葉をなめてみると、ひどく酔っぱらって、三日たっても、まだ気がつかないというありさまである。
そこで子綦も、はじめて気がついた。
「これは、やはり材木にならない木であった。だからこそ、ここまで大きくなれたのだ。あの神人というのも、この木のように才能がなかったからこそ、あの境地に達することができたのであろう」
── 前の 十四 と同じ内容。
初めて「荘子」を読んだ時、おおらかな空間に行ったような、太古の自然あふれる山林、山々に包まれたような、落ち着いた、嬉しい気持ちになった。
荘子が、この空間をつくっているような、荘子じたいがこの空間そのもののような、楽しい気持ちになった。そうして、何かの不安、憂鬱、焦りのようなものが、ゆっくり薄らいで、この空間に同化していくようだった。
読み易く、平素な言葉で、荘子の言いたかったことが、自分の言いたかったことと同じで、嬉しかった。
荘子が代弁してくれた!というより、確認できた、仲間がいた、しかも2000年前から読まれ続けている本に! という喜びのほうが大きかった。
この嬉しさにやられた勢いで読み続けたから、内容が同じでも嬉しかった。
荘子の世界が、とにかく心地よかった。
何回も読み返したけれど、今こうして、今度は読んだ文章を「書いて」みると、また新しい発見がある。これは森さんの訳し方が大きい。些細なことだが「あ、ここは『が』でなく『は』なんだ」とか。
『が』でなく『は』、これだけで全体の印象が全然違うなぁとか、森さんの荘子愛か、人間性のようなものか、とてもとても丁寧に、繊細に、しかも堂々と訳されているなぁと実感する。これは読んでいても感じていたけれど、手を動かして改めて感じた。
何回も読んだ文章も、また違った見え方、文自体の印象・内容の重点のようなものも変わって見えた、そんな節がいくつかあった。
… どう対していいのか分からない、対処のしようがない出来事があって、荘子に助けを乞うというか、自分の気持ちを何とかしたい気もあって、書き始めた。
いのちとか、人間とか。いや、時間がたつのを待っているだけかもしれない。