日常から

 良心と悪心がある。一個の身体に。
 たとえば木を切れば、私の良心は痛む。虫を殺しても痛む。
 木は痛いだろう、虫も苦しいだろう、と思うからだ。
 良心が痛むとは、木であれ虫であれ、相手の痛みを想像して、初めて痛むものだと思う。
ましてその相手の痛みが、自分のしたことから始まっているのなら、また、その相手に対して自分が何もできなかった・しなかった、知っていながら知らないふり、見ていながら見ていないふりをしたなら、やはり良心は痛む。
 相手のことを想像すること、これが良心のなりたちと思う。それに対する自分のおこないが、その後の痛みをつくるのだと思う。
 善があれば悪がある。優があれば劣が、「~するべきだ」があれば「するべきでない」がある。それも、その基準はそれに接する、見る、想像する自己にある。

 ところで、悪── 悪、その自己にとって最も悪いことは、自分を苦しめることだろう。全身がかきむしられる思い、自身が苦しい時、「最悪だ」と思うだろう。
 きっかけが不可抗力であれ(そもそもこの自己自身が不可抗力なのだが)、それでも自分の良心によって自分が苦しめられるのだから、そのきっかけを自分がつくったのだとしたら、その苦しみも倍倍倍になっていく。
 あの時こうすればよかった、と、どんなに悔やんでも、もう遅いのだ。
 何年、何十年前のあやまちを悔やんで、それがある夜いきなり肥大して、眠れぬ苦しみに苛まれる時がある。
 当時の相手が今どうしているのかもわからない。ただこちらは痛恨、悔恨の念に駆られるだけである。
 そんな時、確実なのは、もうその時は、過ぎてしまったことである、ということだけである。

 良心の痛みが、悔恨から生ずるとする。すると、それは自分を苦しめる(最悪の)悪心となって自分を苛む。
 もうその時はここにないのに、いつまでもここに繋ぎとめ、離れない、離さない。

 日常の話をすれば、きのうHさんと電話で話した。その中で、「わたしはストレスに鈍感なのかもしれません」と彼が言った。
 私は感心した。すごいと思った。そう、自分を苦しめないこと、これが何より肝心なのだ、人生やってく上で。
 自分を苦しめることに繋がることを、しないこと。
 日常を、たんたんと、自分のできることをして過ごすこと。
 いつだって、今が、自分にとってのベストであるのだ、と。そう、今がベストなのだ。いつだって、今が。過去も、その時の今だったのだ。