虞美人草の後

 何がきっかけでどうなるか分かったものでない。
 去年の秋か、東京に行くために車中退屈しのぎに薄い文庫本を、と本棚から選んでリュックに入れたのが「文鳥・夢十夜」。以来、何年ぶりかですっかりまた漱石にハマッてしまった。
 図書館で借りて読んだのが多く、家に漱石はあまりなかった。この人の本はあってもいいなと思い直し、その後数冊、書店で求めた。

「草枕」を目指したが、無く、気になっていた「門」を。昨日、わくわくしながら読み始める。
 地味な小説で、前読んだ時はツマラナイなぁと思いながら読み進め、後半のある時点からいきなり面白くなった、そんな印象が残っている本。

 神経衰弱(今でいう精神障害的なものだろう)の打開策に、と漱石は禅寺に入って「修行」めいたことをした、その体験がこの小説には描かれているらしい。
 自分が面白く感じ始めた「ある時点」はそこだったんじゃないか、と確認したい。その時点から、それまでつまらなかった物語のぜんぶが、急に愛しく思えた感覚も残っている。

 こないだ兄と話していた時、「『それから』の後、〈高等遊民〉として主人公がどう生きて行くのか楽しみにしていたんですが…」という感想を聞いた。何ということもない、主人公は役所に勤め、崖の下の、いつ崩れて埋もれるか分からぬ家に住んでいる。

 昨日読み始めて、やはり懐かしく感じた。小六なんて弟、いたっけ、と忘れていることもしっかり確認した。初めて読んだ時に比べ、最初から面白く、楽しく読めている。

「虞美人草」を一昨日読み終えて、やはり漱石、読んでソンさせるものは書かないな、とも確認した。ラスト、終盤辺りから、やたら感動した。第一義とするもの── 何を第一義に置いて生きるのか、ということが如何に大切かを思い知らされる。
 金銭や見栄、世間体、そんなものは虚飾にすぎない。そんなものを第一義にして生きてどうする。
 ほんとうに大事なことは… ということを、漱石は物語を通じて訴えている。

「野分」にも感じた、現代(当時は明治だが今も変わらない)への訴え、何を第一義として生きるか。
 個人を基に、社会がおかしな方向へ進んでいること、それに対する漱石の憂い、怒りもあったろう。
 読むのに大変苦労した「虞美人草」だったが、やはり読んでよかった。しばらく、漱石が続きそうだ。セリーヌも強く読みたいのだけど。一生のうちに読める本、時間。その限りについても確認している思いがする。