共感のもたらすもの

 おもしろい小説、何をもって「おもしろい」というのかといえば、そこにはまず共感があり、自分の求めるものが言葉として描かれることで体現されているひとつの世界があり、自分の心根・精神、気持ちといった体内にすっかり入ってくるような感覚が、「おもしろい」といえるだろうと思うのだ。

 もちろんそれは小説に限らない。
 今村武さんの絵 は、とてつもなくそれを観る自己の中に入ってくるし、誰彼のつくる音楽もそうであるし、時間とともに移り行くもの、それによって変わる空気や空、日が短い、日が伸びた、などもそうだろう。そこから何かを感じる自己がある以上、感じざるを得ない。

 ただ、「共感」は、何としても「自分は独りでない」ということを、思わせてくれる。自分は独りではない、と意識できることは、根拠は定かでなくても嬉しいものなのだ。ただ、その嬉しさを感じるには、まず、自分が独りでなくてはならないことは、いうまでもないだろう。

 ひとを苦しめさせ、眠れぬ夜を過ごさせ、自死にさえ追い詰めるあの「孤独」が、よろこびの種子をはらんでいるというのだ。

 こんなことを書くのも、椎名麟三全集9の中に入っていた小説を読んで、それにぼくは共感をしたために、こんな威勢のいい内容の記事を書くことができている事実は、否めようもない。
 要するに、「人間存在のはずかしさに根拠をおいて、そこから仲よくつきあっていける関係を、私は欲している」というような主人公のいる小説だったのだ。

 これは、ぼくが昔々から、といっても中学生の頃からだが、求めていたひとつの人間関係の形態だった。自殺したがっていた友人を見つけ、たまたま彼女が女の子だったので、ぼくらは恋人どうしになったのだが、死にたがっていたはずのぼくらは、「独りではない」と共感することで、まるで一緒に生きるように生々と生きたのだ。

 約2年後にぼくらは一緒ではなくなったけれども、おたがいに何かを知れたろう、あの時期はそういう時期だったろう、と今でも思っている。つまり自殺を考えるはずかしさ、独りの意識から来るはずかしさ、しかしそれを言葉として体現し(彼女はぼくを含む友人5、6人に、心情を吐露するような詩のような言葉を大学ノートに書いて渡してくれたのだ)、そこからぼくらはつきあい始めたということだ。

 人間、なんて一概にいえないけれども、人間は、はずかしい存在である、ともいいきれないけれども(なぜなら個々の人が、人間であることにはずかしさを感じているかどうかぼくにはわからないから)、しかし、ぼくはそれでも人間ははずかしい存在であると思っている。

 椎名麟三の「我らは死者とともに」、「待っている間の」。このふたつの小説だった。