ドストエフスキー(4)「白夜」

 ドストエフスキーの「白夜・おかしな人間の夢」(光文社文庫)を読んで考えること。
 … 己を愛するが如く隣人を愛する、これを実現したのはキリストだけであったということ。
 個我から無我になるということ。
 他者を愛そうとして、自己より他者に重きを置くことによって、個我は自ずと無我になる。
 無我にならずして、自己表現というのは為されないということ。

 ── 昔々、そこは楽園、誰もが何かを認識し、うなずき、微笑み合い、嫉妬も憎しみもない人間たちが穏やかに暮していた。
 だが、楽園は閉じられた! 主人公が、憎悪やら嫉妬やら、よからぬ種を蒔いてしまったからだ。
 幸福な国の人たちは、それを植え、育てた。

 主人公は後悔しながらも、かつての楽園の人たちが知らなかった悲しみ、憎しみ、怒り、淋しさといった感情の発芽を育て上げるのを見る。
 彼は、「私を磔にしてくれ」と申し出る。だが、彼らはそれを拒否する。かつての楽園の住人たちは、幸福な国に戻ることを拒否する! 彼らは、自分から、憎しみ、悲しみ、怒り、争うことを望んだのだ。
 すると彼には、かつての楽園にいた人々より、憎み、争い、欲に駆られる人々を、以前より愛をもって見つめられる、という物語。

「こうすればいい、ということを彼らは知っている。だがそれを、しない」ということ。