ねえきみ、天才って何だろうね?
思うに、きみを見ていると特にそう思うのだが… 自己の世界に拠を置いて、そこから自分を構築し、不可視な内から可視なる外への体現作業をひとり黙々と繰り返し続けた人間── と言っていいかと思う。ましてきみは、人間が一番関心を持つ対象、自分自身を、その体現の対象としたのだ。
きみは著述するのが好きだった。何より、楽しかったんだね。人間は、楽しむために生きるのだと言って。
楽しみを生み出すのが憂鬱であり絶望であり、死であることも知っていた。生みの親であるそれらを、度外視するわけにはゆかない。それはきみの生きる土台であり、そこからきみは様々にジャンプし得る、必要不可欠な踏み台であった。
そしてそれはきみに限った話でなく、人間はそもそも不安な存在であり、不安が人間であり、不安なくして人間は生きることができないのだ。「不安は反感的共感であり、共感的反感である」とは、不安を抱える人間、不安に抱えられる人間の、不安への必然的スタンスを言い得て妙なほどに言い当てていると思う。
この自己、自分が生きていることをほんとうに感じさせるのは、不安があってのことなのだ。その自己を生かし、だから死なすこともできる不安、この自己をまるで土台に置かず、外装ばかりを塗りたくるまわりの人間と、きみは決定的に違っていた。孤立せざるを得なかったね。
そもそも、きみの内面の運動のことなど、まわりにいる者には、どうでもいいことだ。しかしきみはその内面に異常なこだわりをみせ、それについての追求を続ける。これがために死ねるものを、きみは著述に賭けたのだ。
きみは、「自分に足りないのは我慢強さだ」と言った。まわりに迎合する我慢強さはなかったろうけれど、自分自身に対する我慢強さは、並大抵のものではなかった。見習わなくちゃと思うよ。
最初、きみは「上から物を言う」形式で書いていたらしいね。そりゃきみから見れば、まわりからきみがそう見られていたように、「なんだこの人間は」となっていただろう。自己を究明し育むことをせず、他己── 他から見られることのみに己を立たせ、そこからにのみの自分をあたかも自分であるとして闊歩する人々を、きみは見下げる体勢で書いていた。だが、それでは、誰にも読まれなかったのかな?
で、きみは「一般人」に混ざり合うように、ニーチェのいうところの「賎民」に著述上自分を落として書き始めた。最終的な結果は同じだったろうけれど、それは日本のミュージシャン、松任谷由実が初期の生命的な楽曲でなく、サウンド志向に切り替わったのと同様の作用を、きみに及ぼしたように思える。
きみの書き方は成功した。きみの著作は読まれ、コペンハーゲンできみは有名人になった。もっとも、当時は本が高価で、読む階層が限られていたが…。
レギーネを媒介として、自己の思い、探求を進めたきみは、同時にレギーネ自身に向けて著作のぜんぶができあがったようであった。だが、やはり同時進行でキリスト教への攻撃を続け、そして「コルサル事件」と呼ばれる事件を引き起こすことになる。
きみが、きみの神と対話を進めることと、まわりがきみに及ぼす影響、きみがまわりに及ぼす影響は、常に同時進行していたね。
きみは確かに天才だったろう。だが、それはきみがきみの自己に固執した、せざるをえない自己からの、他然ではない自然のなりゆきだった。そこからきみは、書かざるをえなかったのだ。
他然たる「まわり」が、天才だの馬鹿者だの、きみをどんなに言ったところで、きみには根本的に関係なかったね。きみが評価され始めたのはきみが死んだ100年後だったし、生存中に天才の称号を得たとしても、きみにはそう見られた自己と自己との関係を進める媒介にすぎなかったろう。
もし天才というのがあるとしたら、「そうせざるえない、打算など入る余地もなく、そうせざるをえない自己に捕われ続け、そうして自己を捕らえているものに対しての追求の手を緩めず、ひたすらそれに打ち込める自分」を死ぬまで有した人であると思う。きみはその意味で、まさしく天才だった。
生命に、限りがあることをきみが実感として認識していたことも、きみの天才に拍車をかけただろう。生命の危機に陥っていない者は、まるで自分が死なないように生きている。
きみの憂鬱、絶望、不安。きみは漠然とでなく、34歳以上は生きられないと思い込んだ。そして計画を立て、死ぬまでに遺産を使い果たそうとして、順調に遺産を消費していたが、死ぬスケジュールがきみの意思と関係なく変更されてしまった。
生活は質素になり、日記も書かなくなり、生き延びてしまった自分に、きみは何を見ていたのだろう?