どれほど自分が相手に気を遣っているつもりでいても、相手に伝わらなければ、そして相手がそれを快く思わなければ、何にもならぬ、むしろ疎ましがられる、何を考えているのか分からない、ピント外れの壊れたカメラのように見られるかもしれないよ。
近所で何か事件があったら、「あの人、怪しい」と、真っ先に不審人物、捜査対象人物になって、警察が家にやって来るかもしれない。
怖いねえ。生きてるだけで、大変なことだねえ。
「気を遣う」「思いやる」「相手のことを考える」これら、ぜんぶ、観念だねえ。一人一人、違うアタマを持っているから、通じるか通じないか、わからない。「気」「思い」「考える」なんて、いかにも漠然としていて、何のキマリも規則もないからねえ。
死にそうなほど、相手のことを考えていたとしても、相手には「ただボーッとしている」としか見られないことだってある。
怖いねえ、怖いねえ。こんな世界、とてもじゃないが、やっていけそうにないね。
相手に伝えよう、わかってもらおう。そんなところから、嘘が始まるのかもしれないね。
だって、表現しないと、形に現わさないと、伝わらないんだから。
そうだとしたら、みんな、演技賞だね。人間関係という舞台を下りたら、ああやれやれ、終わったよ、とホッとしたりして。
うまく、やれただろうか。頭の中で巻き戻し、映像を振り返る。
うん、上等、上等。
だが、相手は「なんだかおかしな人だったなぁ」と思っている。
まったく、「思い通りになる」なんてことは、金輪際、ないのだ。
サンダルの汚れ一つで、帽子についた汗のシミひとつで、あなたは「不審人物」になってしまいかねない。
相手が、あなたを気に入らぬ要素の、重大な一点になりかねないのだ、今朝ヒゲを剃らなかったばっかりに! 寝不足で、ちょっと眉間にシワを寄せて歩いていたばっかりに。
──なんでそんなに、きみは人の目を気にするね? どうして、そんなに気に入られたい、人から良く思われたいね?
…… 気持ち良く、笑って挨拶をしたいだけなんだよ。「おはようございます」「こんにちは」ってね。
ぼくは、「みんな」が「ふつうに」、空気を吸うようにしていることを、「みんな」が「ふつうに」空気を吸うようにしているように、したいんだよ。
それが、どうも、できないみたいなんだ。
いちいち心臓をドキドキさせて、張り詰めた、過呼吸みたいになりながら、朝のゴミ出しなんかに行っているんだ。買い物もそうだよ。外に行くのが、恐ろしい。何としても、恐ろしい。
──そしてきみがそんな気持ちで歩いていることを、近所は誰も知らない…
いや、こんな気持ちでいることがバレたら、それこそ精神異常者だろう? こんな気持ちでいることは、隠さなくちゃいけない。知られてはいけない。で、僕は「ふつう」のふりをする。何でもない顔をして、「まとも」を装っているのさ…
──みんな、そうしているのかもしれないよ。…きみの気にしている「みんな」が、みんな、そうしているのかもしれないよ。ひょっとして、もしかすると。