言葉は自分のためのもの

 昨夜は「一致した状態(肉体と精神の)、これが幸せな状態だろう」ことを考え、眠れなくなった。途中で終えたから、その先をあれこれ考えてしまった。

 カラダとココロの一致。「実現」という、思わぬものが出てきたから、ムッ、とまた考えることになり、しかし実現というのは、まあシンプルに、「願っていたことが叶った状態」と考えていいかと思う。

 ただその時、「願っていた時間・自己」があり、その願いが実現した、つまりはココロとカラダが一致した、形而上と形而下が一致した、ということになるだろうと思う。

 眠れない夜、ミニラジオをつけた。するとたまたま、辞書の編纂者のナントカさんという人が喋っていた。まったく、辞書をつくるというのは大変な作業であるらしい。でも、「自分のためにやっています」と仰っていた。

 自分が言葉を知りたいというのもありますし、世のため人のためにやっているんじゃなく、…と。

 おお、と思った。そうか、辞書という、言葉の宝庫をつくる人も、「自分のためにやっている」!

 言葉はなぜ生まれたのか、と、よく考えることもあったが、確信した。言葉は、自分のためにつくるものなのだ、と。

 そう、きっと言葉は、自分のために発せられたのだ。人のためでは、けっして、ない。

 痛い、も、愛してる、も、憎らしいも痒いもくすぐったいも。

 自分の状態、自分の感情、自分の思考を言い表すために、発したのだ。

 積年の疑問が、晴れたような気がした。

 そう、自信をもって書いていいのだ。自信をもって、発言していいのだ…