さっき布団に横になったら、こんな独り言が口をついて出た。
「死ぬってどういうことなんだろう」
死ぬとはどういうことか?
れいによって、答えのない問いだ。
今日は何も書いていないし。何か書かないと、どうも物足りない。モノではないな、ココロが足りていない気になる。
でも、これは答えのない問いだ。これについて書くことはできない。精神の死、肉体の死。私の死、私でない人の死。と、そこから行くこともできるけれど、「死ぬってどういうことなんだろ」と独り言ちた自分のことを考察してみよう。
まず私は今日一日、買い物、ご飯づくり、掃除洗濯をしただけだ。午前中、朝から何か書いていたが、納得がいかなかったので「ゴミ箱」に移動させた。
「何もやっていない」一日のように思えた。
この夜、今になって、あんな独り言をいった。… あまりに平和な、何もない一日の終わりに。そう、平和だったのだ。その退屈さが、ここにきて私を動かし始めたようだ。
退屈な一日。意味がないような一日? 意味。そう、「死」は生に意味をつける。
死ぬことを考えることによって、まるで退屈な今日という一日が、急にまるで意味を持つような気になる。意味を持たせたい。そのために、あんな独り言が口をついて出たのだと思う。
情況としては、「眠れない」があった。全然眠くない。これも、今日何も書いていないからだと思えた。布団の上で、あれこれ私は考え始めた。
「気力の容器」という言葉が浮かんだ。
何か書きたい。無性に書きたい。その「たい」(気力)が溢れて、どんどん零れ落ちていく。日本酒を飲む、あの四角い木製のマスの器から、どんどん溢れて、外へ外へ流れていく光景がイメージに浮かんだ。
上の方の、どこかにある蛇口から出る水が、マスから飛び散って、肝心なマスの中に全然残らない。
蛇口が上にありすぎるせいか。それとも、全開に回しすぎたのか。
上の方にある蛇口は「死」か。全開に回したのは「何かが足りない」私の刹那的な衝動か。
気力が溢れる。それはいいことだ。でも、溢れすぎては何も残らない。漠然としてしまう。
マスの中におさめたい。マスから、零れぬように。溢れそうで溢れないように、絶妙なところでおさめたい。たわわな水面みたいに。四角く角張った木の器に、ちょうどよくおさまるように…
おさまったかな。足りないな。
…「こどもたちへ」という文章を午前中書いていた。こどもに向けて「いのち」とか「平和」のこと、つまり生きているということ、それがどういうことかということを、文章にしようとして。
これが難しかった。考えている時は楽しかったが、時間ばかりが過ぎた。でも、とても書きたい。一つの記事なんかにおさめるのでなく、また長々と書きたい。
でもほんとにこれは難しいと痛感した。こどもに向けて書くって、どうしてこんなに難しいんだろう? 自分がこどもの頃、考えもしなかったことだから? おとなの言葉を使うことに慣れてしまったから?
私の中にも子どもがいるはずだから、それに向かって書けばいいのにと思う。私の中の子どもが、納得するように。
今日は、こんなところか。これで少しは、眠れるようになったかな?