ああ、この人はこういうことを書くんだろうな、と分かると、もう読む気が失せることがある。過日に読んでいた藤原新也の「丸亀日記」がそうだった。骨のある、いい文章。社会にしっかり問題提起、ユーモアあり、共感あり、読んでソンのない、面白い本。この人は凄い、心からそう思い、素敵な本と巡り会えたと思う。だが、それから読む気になれない。止まってしまう…
こんな本が、作家が、いくつかある。
今、たまたまセリーヌに惹かれ、読まずにはいられない情況に持って行かれている。ちょうどいい、ちょっと考えてしまおう、「読もう」という気にさせる本と、その気になれない本のこと。つまらん比較だ、分析なんかせず、ただ感想を書こう。
違いのことで真っ先に浮かぶのはその文体、ていをなしているもの、そこから浮かび上がる作家の心情、何がこの人をこんなに書かせているのかという芯、湧きでる泉の底のほう。
セリーヌは口語体だ。汚い言葉も使い、挑発的で、乱暴的でもあるが、ノリがいい。書いているセリーヌ自身のまわりに殻ができたらば、それを打ち壊していく、制限するもの、制限してくるものを攻撃する、遠慮なんかしない── という印象を与える。
ただそのテーマ、セリーヌが破ろうとするもの、だからセリーヌが最も大切とするものが、どこまでも「人間」なのだ。欲望、貧乏、底辺、戦争、こんなものを描く以上、体裁など構っていられるか。そしてただ荒々しいだけでない。執拗なだけでない。醜悪なものを直視する眼が、劣悪なものに戦いを挑む眼がある。そのナイフに、こちらはやられる。もっとやってこい、と、こっちも挑発的になる。そんなもんか? まだ足りないんじゃないか? 愛なんてまやかしの言葉を使うな。でもこっちは知っている、お前は優しい、愛情深い、真剣な奴なんだと。だから甘っちょろい言葉なんか使うな。
対して、藤原新也の「丸亀日記」は。この一冊しか、この人の本は読んでいない。それ以上読もうとできないのだから、もう比べるなどという失礼なことはしまい。まったく、本というものは読むこちらのタイミングによる。もし二十歳の頃だったら、藤原信者になっていたかもしれない。が、たぶん決定的なところは変わらない。読むこちらの性格的なもの、気質的なもの。書くあちらの、それ。
「虫けらどもをひねりつぶせ」はフランスでも発禁処分になったままであるらしい。翻訳され、発売されたのは日本だけらしいが、それも今やあまりに高価になってしまった。この本でセリーヌは、ユダヤ人を徹底的に攻撃しているらしいが…。
しかしこないだも書いたが、あのシャルル・アズナブールが好んだ作家が、心底からの反ユダヤ主義であったとは思えない。ユダヤ人への憎悪がほんとうにあったとしても、それは憎悪というものを表現する、描くに、単なる題材にすぎなかったのではないか? 人間に巣食う、悪霊のような憎悪、怨嗟の感情を浮き彫らすための。
そんな本が発禁処分を受けるのは、浅はかに言えば、「もう問題をほじくり返すな」ごまかそう、忘れさせよう、面倒臭いことはやめよう、そんな出版社の思惑と、「直視したくない」読者、フヌケの合致、醜怪なものに眼を閉ざす── といって最も醜悪な戦争世界に生きているという… 結局売れない、売りたくない、考えたくない、見たくない、そんなところから始まっているのか。