こんな話がある。
ある認知症の老人と、彼は散歩に出かけた。家にずっとこもっているのは、よくないだろうと思って。
だが、道行く途中から、彼は老人の歩行が不安になった。
で、手をつないで歩くことにした。手をつながないと、彼自身が不安だったからだ。
しばらく二人、手をつないで歩いた。
だが、ちょっとした下り坂のところで、老人は転倒し、頭を打って死んでしまった。
彼は、散歩に出かけたことを悔やんだ。身悶えし、狂おしいほどに悔やんだ。
だがその悔恨は、まちがっていた。
老人は、彼と手をつないでいたために、バランスを崩し、転倒したのが事実なのだ。
そして彼は、そのことに目もくれようとしなかった。
老人は、自分で歩く力があったのに、彼はそれだと不安であったために、手をつないだ。
それについて、彼は「まちがっていない」と主張し、世間も同情した。
だが老人の死を誘発した、事の真相は、彼の「不安」だったのだ。
これは何も、老人と彼に限った話ではない。
恋人どうし、夫婦どうし、親子どうし、友人どうし── あらゆる関係という関係に、起こりうることである。
つまり、自分自身との関係なのだ。