すべては間接

 自己の内に根本的にあるものは、間接にしか表現できない。

 考えてみれば、「愛している」という言葉も、間接である。

 その相手が、自分の根本的なところにあったとしても、その相手への思いは、とうてい直接には伝えられまい。

「抱きしめる」という行為も、間接である。

 憎しみ、という思いを誰かに抱いたとして、それを表現するのも間接に過ぎない。

 悲しい思いも、喜びも、涙や笑いが自然に出たものであったとしても、それが他者へ伝わるのは、涙や笑いという間接を通してのことなのだ。

 すると、自己が他者に対して直接、関係を持つということは、不可能なのだ。

 そこに、不自由があり、自由がある。

 だが、そう考えると、何やら気が楽である。

 直接、思いが伝わることなどないのだから、何もそんなにムキになることもないからだ。

 この世は、すべて間接で成り立っているようにさえ思う。

 それなのに、直接を求めるのは、そもそも無理がある。

 ラブレターも中傷も、怒鳴り声も甘い声も、言葉や声、色、形の間接に過ぎず、「思い」そのものではない。

 さらに考えれば、他者と自己の関係の前に、自己と自己との関係がある。

 これすら、間接ではないか。

 うるさい音も静かな音も、実は、ない。

 ただ耳が、耳として聞こえているのだ。

 美味しい物も、不味い物も、ない。

 ただ舌が、そう感じるだけなのだ。

 気持ち良いも、気持ち悪いもない。

 ただ気持ちが、そう感じるだけなのだ。

 なぜ耳があり、舌があり、気持ちがあるのか。

 ただあるからあるのであって、その「自分」と称せられる受動的なものと、「自分」と称する主体的な自分自身との関係も、直接であるとは言えまい。

 この、いろんな器官によって集合体となってはいるが、それぞれの器官がそれぞれに、動いているだけである。

 中でも、この「気持ち」と、この「気持ち」をみつめる自分との関係は、一筋縄ではいかない。

 自分の思い通りに、この気持ちとの関係をとりもつことができれば、それは人生の達人と言えるだろう。

 だが、思い通りになることはないのだ。

 なぜなら、思いは間接的にしか、自分自身にさえ、伝えようがないからだ。

「ペシミスティック・サロン/希望と絶望について」に続きます