(1)希望と絶望について

「それにしても、希望がないね」
「うん、ない。ないから、つくれるものだとも言えるが」
「だとしたら、希望がないということは、希望があるということになるね」

「希望は、叶ったら、なくなってしまう。叶うまでのものでしかない」
「なくすために希望を持つということかね?」
「人が希望をもつんじゃなくて、人が希望にもたれてしまうんだよ。乗っ取られて、操られてしまうんだ。
 そうして希望はその仕事を終えて、円満退社するようにその人から離れていく」

「希望は、それを持つ人の中にあるんじゃないのかね?」
「逆だよ。希望はそれ自体であるものだ。それを自分の希望だと、ワガモノにした気になっている。人の、大いなるカン違いだ」

「おれには希望がある、って思っているが」
「希望の牢屋の中にお前さんがいる、ってことだよ」
「絶望はどうかね。これはあるだろう、みぢかに」

「希望が叶わず絶望するのだから、希望がなければ絶望もないということになる。同じことだよ。希望も絶望も、そこにあるものだ。
 それをわざわざ引っ張ってきて、自分の中に取り入れて苦しんだり楽しんだりしているだけなんだよ」

「それが苦楽の根源、と?」

「こちらとしては、それを感じることしかできない。感じるのは自分だから、それはいかにも自分のものであるかのようだ。
 でも、自分がしたことといえば、自分の外にあったものを取り入れたことだけで、自分の中にはもともとそれはなかったんだよ。自分のものでないものを、思い通りにはできないよ。
 ところが、たまたま思い通りになったらば、希望が叶ったと感じ、簡単に希望のモノにされて、猿みたいに喜ぶ。
 思い通りにならなくても、その簡単に絶望・失望のモノにされて、深海魚みたいに沈む。
 どちらも自分のものでなかったのに。
 嬉しさを感じたらまた喜びたいと願い、苦しさを感じたらもうこんな目に遭いたくないと願う。
 同じタマゴから生まれた希望と絶望なのに」

「こっちが、取捨選択しているということかね」
「自分のにあるものだから、そうすることができる。
 内にあるものだったら、手を伸ばしてつかもうとすることもできないよ」

「つまり、絶望も希望も外にある、と?
 望遠鏡でそれを眺めて、『good!』と思ったものを見つけ、それを拾い、自分のモノにしたいと願う。
 その時点で、もう『希望』の役割は終わり、あとは自分でそこへ向かって歩いて行くだけ。
 そして思った通りの希望に叶わなかったら、絶望する。
 その絶望は、希望がそうだったように自分から離れたところのものだから、もともと自分にないものだ。
 でもそれに心奪われて、つまりそのモノにされて、苦しんでしまうということかい」

「そういうことになるね。
 このブログでは、ものの見方・考え方ひとつで、世界の景色が変わっていくんじゃないか、ということを話し合えたらと思っている。
 なぜなら、ぼくにはあまりいい世界には思えていないのでね。理由を挙げたらキリがない。
 せっかくこういう場があるのだし、言いたいことは言った方がいいんじゃないかと思ってね」

「なんだ、全然ペシミスティックじゃないじゃないか」
「言ったろう? 希望も絶望も── だからペシミスティックもオプティミスティックも同じことだと。
 悲観も楽観も、前向きも後ろ向きも、それを見る角度でどっちにもなるのさ。
 でも、あまりに希望がないように思える世界だから、結局厭世的になるかもしらんな。
 仕方ない。
 それでも、ぼくら、いるんだから… まぁ、またおいで。いつでもやってるよ」