(4)恋愛について #3

「心、か…」

「うん、心だ。
 この心は、記憶のかたまりでもある。
 人間が今知っていること、『知識』なんか、ちっぽけなものだよ。
 昨日話した有史以前の『一体』だった頃の記憶さえ、この心はおぼえている。
 ヘビやトカゲが好きな人間がいるだろう?
 彼は、それらに、かつての自分を見て、懐かしんでいるんだよ。

 花が好き、鳥が好き、月が好き、蝶が好きな人間たちがいる。
 同じことだ、彼らは、それを愛しているのだよ、かつての『仲間』に郷愁を感じてね。
 遠く遠く、過ぎ去ってしまった自分自身をそこに見ているのだ」

「その自分自身とは、心自身だな。
 だから、やすらぐわけだな、好きなものをでていれば。
 とすると、「一体」であった大昔の頃、その心にインプットされたものが、今、人にそれを愛させるということになる。
 プラトンの「二身一体説」とも被るな。
 でも、だとすると、人間は自分しか愛せなくなるじゃないか」

「その通り。人間は、自分しか愛せないのだ」

「エーゲ海の一国で、ソクラテスがプラトンの書によって伝えられたように、中央アジアの一国にも経典によって後世に伝わる話がある。
 アジアのそれは、かなりシュールだ。
 コーサラ国王のパセーナディが宮殿の中でマリッカ夫人と交わした会話──
『私は、自分より愛しい人はございません。あなたはどうですか』
『うん。わしも、自分以外に愛する者はおらん』

 といって、二人は、ケンカしているわけではない。
 二人ともに、それを認め合っているのだ。
 人間は、自分しか愛せない。この事実を、厳粛に承認した上で、よろしくやっていたという話だ」

「うん。つまり、それぞれの心を、みつめあっているのだね。
 ところで古文書によれば、ソクラテスとブッダは、ほぼ同時代に生きていた。
 これは面白いことだね。
 まだ紀元前だったし、有史以前の記憶から、そんなに遠ざかっていなかったからな。

 あのだった頃の記憶が気になって、想い出そうと、まだ人々が必死に追っていた時代だ。
 愛という概念(すでにある念だぜ)も、はじまりはその頃だったろうね。
 それがいつのまにか、愛なんか忘れて、自分勝手になり下がった人間が多くなってしまった」

「しかし、心に操られているとしたら、われわれはどうすりゃいいのだ?
 そんな原始の頃に戻れない。
 心がどんなに『一体』の頃を懐かしみ、愛し、いくら戻りたがっても、無理な話だ」

「そうだ、無理だ。
 だが心は、愛したい愛したいと、今もその対象を探しているのだよ。
 その心が愛する対象を、人間自身が愛することが、大変な思いをずっとしてきた心に掛けてやれる、せめてもの暖かい毛布だろうよ。
 何だかんだ、心と人は、永く永く、最も身近に、つきあってきた間柄だ。

 その心が、『この人!』と決めた相手を、きみはその心にしたがって、愛してやることだよ。
 そして翻弄されるのだ。
 うまく行ったり、行かなかったりして、そして失望し、満足したりする心に。

 つまり、恋愛はチャンスなんだよ、
 心どうしを、だいじに、癒し合い、抱きしめ合えられる。
 お互い傷ついたら、もっとだいじにしてやろう、とすることができる」

「その前に、フラれたら絶望するだろう、ひとりで。
 心は傷を負い、嘆き、悲しむだろう。
 思い通りにならなかったダダッ子は、地面に転がって泣き叫ぶだろう。
 へたしたら、ショックで死んじまうかもしれない。
 そんなイヤな思いを、おれはしたくないし、心にもさせたくないね」

「それも引き受けていくんだよ。
 今までも、何億年ものあいだ傷ついたり癒えたりしてきた記憶が、心にはある。
 思い出すまで時間がかかるけど、それまで、いたわってあげるんだよ。

 いたわられた心は、ゆっくり、むっくり、起き上がってくるよ。
 それまで、人間自身は我慢強く、寄り添って、見守ってあげるんだ。
 そして人間には、そのくらいのことしか出来ないんだよ」

「大変だな。
 でも心さんは、もっと大変な思いをしてきたってわけかい。
 どうしてこんなことにならなきゃいけないんだ。生まれてきたばっかりに」

あるからだよ。
 心はそれ自体としてあり、きみにはこれが自分だとする自分がある。
 この二つのものは、離れているのだ。
 自分と、自分が愛する人が離れているようにね。

 考えてもみろよ。
 わざわざ恋愛するなんて、自分から熱湯のシャワーを浴びに行くようなもんだぜ。
 ひとりで、安穏と、平穏に生きれるなら、それに越したことない。
 その方が、よっぽどいいだろう。
 でも心は、人を探し、求めているんだ。誰に命じられたわけでなく」

「やれやれ。ペシミスティックどころか、デスペレート・サロンだね」

「それじゃ、ゴロが悪い。
 ペシミスティック・サロンでなくちゃいけない。
 これは、センスのもんだいだ」