「心、か…」
「うん、心だ。
この心は、記憶のかたまりでもある。
人間が今知っていること、『知識』なんか、ちっぽけなものだよ。
昨日話した有史以前の『一体』だった頃の記憶さえ、この心はおぼえている。
ヘビやトカゲが好きな人間がいるだろう?
彼は、それらに、かつての自分を見て、懐かしんでいるんだよ。
花が好き、鳥が好き、月が好き、蝶が好きな人間たちがいる。
同じことだ、彼らは、それを愛しているのだよ、かつての『仲間』に郷愁を感じてね。
遠く遠く、過ぎ去ってしまった自分自身をそこに見ているのだ」
「その自分自身とは、心自身だな。
だから、やすらぐわけだな、好きなものを愛でていれば。
とすると、「一体」であった大昔の頃、その心にインプットされたものが、今、人にそれを愛させるということになる。
プラトンの「二身一体説」とも被るな。
でも、だとすると、人間は自分しか愛せなくなるじゃないか」
「その通り。人間は、自分しか愛せないのだ」
「エーゲ海の一国で、ソクラテスがプラトンの書によって伝えられたように、中央アジアの一国にも経典によって後世に伝わる話がある。
アジアのそれは、かなりシュールだ。
コーサラ国王のパセーナディが宮殿の中でマリッカ夫人と交わした会話──
『私は、自分より愛しい人はございません。あなたはどうですか』
『うん。わしも、自分以外に愛する者はおらん』
といって、二人は、ケンカしているわけではない。
二人ともに、それを認め合っているのだ。
人間は、自分しか愛せない。この事実を、厳粛に承認した上で、よろしくやっていたという話だ」
「うん。つまり、それぞれの心を、みつめあっているのだね。
ところで古文書によれば、ソクラテスとブッダは、ほぼ同時代に生きていた。
これは面白いことだね。
まだ紀元前だったし、有史以前の記憶から、そんなに遠ざかっていなかったからな。
あの無だった頃の記憶が気になって、想い出そうと、まだ人々が必死に追っていた時代だ。
愛という概念(すでにある念だぜ)も、はじまりはその頃だったろうね。
それがいつのまにか、愛なんか忘れて、自分勝手になり下がった人間が多くなってしまった」
「しかし、心に操られているとしたら、われわれはどうすりゃいいのだ?
そんな原始の頃に戻れない。
心がどんなに『一体』の頃を懐かしみ、愛し、いくら戻りたがっても、無理な話だ」
「そうだ、無理だ。
だが心は、愛したい愛したいと、今もその対象を探しているのだよ。
その心が愛する対象を、人間自身が愛することが、大変な思いをずっとしてきた心に掛けてやれる、せめてもの暖かい毛布だろうよ。
何だかんだ、心と人は、永く永く、最も身近に、つきあってきた間柄だ。
その心が、『この人!』と決めた相手を、きみはその心にしたがって、愛してやることだよ。
そして翻弄されるのだ。
うまく行ったり、行かなかったりして、そして失望し、満足したりする心に。
つまり、恋愛はチャンスなんだよ、
心どうしを、だいじに、癒し合い、抱きしめ合えられる。
お互い傷ついたら、もっとだいじにしてやろう、とすることができる」
「その前に、フラれたら絶望するだろう、ひとりで。
心は傷を負い、嘆き、悲しむだろう。
思い通りにならなかったダダッ子は、地面に転がって泣き叫ぶだろう。
へたしたら、ショックで死んじまうかもしれない。
そんなイヤな思いを、おれはしたくないし、心にもさせたくないね」
「それも引き受けていくんだよ。
今までも、何億年ものあいだ傷ついたり癒えたりしてきた記憶が、心にはある。
思い出すまで時間がかかるけど、それまで、いたわってあげるんだよ。
いたわられた心は、ゆっくり、むっくり、起き上がってくるよ。
それまで、人間自身は我慢強く、寄り添って、見守ってあげるんだ。
そして人間には、そのくらいのことしか出来ないんだよ」
「大変だな。
でも心さんは、もっと大変な思いをしてきたってわけかい。
どうしてこんなことにならなきゃいけないんだ。生まれてきたばっかりに」
「あるからだよ。
心はそれ自体としてあり、きみにはこれが自分だとする自分がある。
この二つのものは、離れているのだ。
自分と、自分が愛する人が離れているようにね。
考えてもみろよ。
わざわざ恋愛するなんて、自分から熱湯のシャワーを浴びに行くようなもんだぜ。
ひとりで、安穏と、平穏に生きれるなら、それに越したことない。
その方が、よっぽどいいだろう。
でも心は、人を探し、求めているんだ。誰に命じられたわけでなく」
「やれやれ。ペシミスティックどころか、デスペレート・サロンだね」
「それじゃ、ゴロが悪い。
ペシミスティック・サロンでなくちゃいけない。
これは、センスのもんだいだ」