波の荒い人生を送ってきました。
良いことがあれば、天にも昇るほどの精神状態が数時間(ときに数日)続く。
悪いことがあれば、この世の終わりのような心地を数時間(やはり、ときに数日)引きずる。
昇天中は、下界に突き落とされるまでそこに滞り、下界で悶々中は昇天する出来事があるまでそこに滞在する。
「常に一定の気分で、ものに動じない、そんな人間になりたい」と、以前知人に言ったことがあります。
彼曰く、「それはムリでしょう」。
昔、つきあった恋人は、「情緒不安定って病気みたいだけれど、情緒って、もともと不安定なものなんじゃないかしら」とか。
波の多い人生でした。
私の場合、何のビジョンもなく、刹那的、いえば「今がよければいいではないか」としか考えられなかった。
唯一、具体的に「なりたい」と思った職業が、「用務員のおじさん」でした。
小学校に、いつもニコニコしている、初老で小さな用務員のおじさんがいたのです。
子どもの私は、用務員という職業よりも、「こんな人になりたい」と思ったのかもしれません。
今も、あの温和な笑顔を思い出します。
マンガ家には憧れましたが、憧憬の域を越えることはありませんでした。
夢を実現することよりも、「今」マンガを描いていることが楽しかったのです。
それで全く、満たされていました。
奇蹟のようにプロになったとしたら、いえ、その前に「これが自分の職業になる」という状況に置かれたら、私は急いで逃げ出したくなったに違いありません。
だって夢が実現してしまったら、それで終わってしまう。
私は夢のまんなかで、ひとり、部屋に籠ってマンガを描いていたかったのです。
このような幼少期からの性癖は、おとなになった今も変わっていません。
私は楽しんで(言葉あそびですが「愉しんで」)、「今」を過ごせたら、何の不満もないのです。
ですが、愉快なことばかりではありません。不愉快なことが多い。
正確にいえば、不愉快なことを引きずり、それに引きずられる。
そのために、不快な思いが肥大される。
きっと、そうなんです。
わざわざイヤな事柄を自分で拾い、大事にポケットにしまっているんです。
そんな、人生、悪いことばかりあったわけでもないはずなのに。
どうしてこうなってしまうのでしょう? 気が弱いのでしょうか。脳が、足りないのでしょうか。
私には、よく分かりません。
ただ何十年か生きて、ああ、自分はこういう人間なんだと、あるていど分かった気がします。
でも、それも心許ない。
自分で、そう決めつけているだけ、と思えるからです。
また、周りの人が見る私と、私が見る私は、どうもズレているようだからです。
これも、「分かって欲しい」という、私の甘えでしょうか。
だとしたら、私は一体、私の何を分かって欲しいというのか。
欲望は、実に限りないです。それは分かっているつもりです。
満足というものを、知らない。
いえ、知ったならば、「もっともっと」になってゆきます。
そのとき満足しても、どうせ長続きしないんです。
「自分自身になりたい」。
私の夢は、用務員から変わりました。
20歳の頃です。
いよいよ、わけがわからなくなりました。
親の保護下から押し出され、さて自分はどうやって生きて行けばいいのか。
そんな時、そんな夢を描くようになりました。
いわゆるフリーターというような「職業」、社会的にはそのような身分で、生きて来たと思います。
結局、何も変わりませんでした。
いろんな人と出逢い、その度にひとりで傷ついたり、嬉しがったりして、これからも、そうして生きて行くのだろうなぁと思っています。
時々、何のために生きているのかなぁ、と涙ぐんだりします。
どうも人間(私)は、人間の思考、手の届く範疇を越えたもの、手の届かないものを、この手につかみたいとするんだなぁ、と、この頃、足りない頭で考えています。
だって、思い通りに、人が、出来事が、あることなんて、ないんですから。
それを、そうしようとする自分を、何とかしようと思うようになりました。
みんな(かどうか分からないけど)、一生懸命、生きているんだなぁ、と思うようにもなりました。
また、この頃ですが、「自分なんて、ないのだ」とも思っています。
古典的な本から、いろんな思想にも触れました。
いにしえの人は、ホントのことを云っていたように思います。
今、こうしてブログを up しています。この私は、ひとりです。
きっと、これを目にする人も、ひとりで読んでいるんだろうと思います。
ひとり、ひとりなんだなぁ、と思います。
ホギャアと生まれて、最後の息を吐く時も。
何かが自分に入って来て、何かに自分が持って行かれること。
それが、イキテイル、ってことなのかもしれないな、などとも思う、今日この頃です。