あの世へ、もし旅立とうとする時が来たならば、その時に心から笑っていられること。
その時に向かって、生きること。その時のための、今であること。
その今が、その時をつくるということ。
苦難も悲嘆も、そのためにあるもの、と思いたい。いや、そのためにするために、悲苦があるのだ、と。
私のために、すればいい。
この「私」が危なっかしい、こころもとない足取りの、頼りない情けない存在だとしても。
今こんな気があったとしても、この気が永遠に続くわけでないように、また別の気も、一箇所に留まることはない。
このわけのわからない「気」に惑わされ、動かされ、浮遊しているような存在が、ここかしこにあるだけ。それが存在、「ある」ということ。
充分だ。これだけで、もう充分だ。それを「充」とできぬこと、しないこと。そこに、ほんとうに足りないもの、この内に、この中に、足りないものがあるのだ。
この身につけるもの。心得るもの、体得するもの。
それは空気のように、気張って構えるものでなく。
目には見えぬが、あるもの。あるものを動かす、生かす、目に見えぬ、大きなもの。
ここにある、この世にある、ありとあるものを見つめている、何も考えず、何も思わず、見つめている自覚もない、ただそこにある大きな大きな、大いなるもの。
大小などという、そんな比べて、大きいだの小さいだの、測りようもない存在。
存在しているのかも分からず、存在などしていないように存在しているもの。
「私」はそれを快く感受し、この身の内にあなたを… なにものでもなく存在しているあなたを、私の中に、まるで私自身のように、育めますよう。