結局のところ、言葉にすれば、「私は何のために生きてきたのでしょう?」これに尽きると思う。
そしてその意味を知れれば、もう、知りたいことはない。
知るというより、体験する──
あのいのち、このいのち、そのいのちが、なぜにあるのか、あったのか。
その意味を知れたら、もう、死ねる。喜んで、行ける。
たぶん意味はない。いや、わからない。意味が、わからない。
「意味がわからない」。
ああ、本気でそう思えたなら。
わかろうとするから、わからないのだ。その意味は、屹度、わかるものではない。理解するものではない。
体験するものだ、身につけるものだ。
或いは、この身に既に備わっていたものへ、水を与えること… まがりなりにも伸びた、この、まだある枝葉に、潤いを与えること。
理屈ではない。理屈ではない。それなのに、頭は考える。こねまわし、ひねくりまわし、意味を考える! ないものだから、とりつくろう。
何を探しているのかね。何が欲しいというのかね、もう、与えられているというのに? 何を、求めているのかね。