落ち着くまでの過程(10)

 いや、冗談でなく、苦しかった。「冗談でなく」と今でこそ言えるが、あの夜、昨日の夜だが、出口なしのそれだった。

 自殺を考えるのは苦しい。苦しむために自殺するのか、自殺のために苦しむのか、その判別もつかなくなる。

 最初は苦しいだけだった。「だけ」といっても、苦しいことの「だけ」は、何としても苦しいだけだ。

 私自身が、それに耐えられなくなったのだと思う。「あ、明日」と、明日のことを考え始めたのだ。

 何も今、死ななくてもいいではないか。明日… 明日、明日にしよう。

 明日にしよう。部屋も片づけた方がいいし、(まったく、自殺を考える時、何といろいろなことが考えられたろう! キャッシュカードの契約のこと、このブログのサーバーとの契約のこと、電気・ガス・水道、私名義の自動支払いは、名義人が死ぬのだから、その後もここに彼女が住むとしたら、とか、庭の木を切らねばならぬのに、彼女は業者を頼むだろうかとか、彼女の食生活はどうなるのだろうとか、洗濯物のこと、ゴミ出しのこと、あれやこれやと際限なく細かなことが思い浮かんだ)と、そう思った。

 そんな、生前整理じみたことをやったら、スッキリして、かえって自殺なんかしなくなるだろう、とも思った。だから今! ごちゃごちゃのまま、今、死ねたなら!と思った。

 だが、繰り返すが、苦しかったのだ。で、「明日にしよう」となった時── その瞬間、付き物が剥がれたように、荷が下りていった。

 私は、苦しくなくなった。

 それから、自殺を考えるのは一体何回目だ? と自分の内から、想起された。毎晩、この頃は、「死にてえなぁ」とは言っている。寝床に入れば、必ず言っている。だが、こんなに自殺を、まるで本気で考えたのは何回目だ?

 それから、パソコンに向かった。自殺を考えた時、その情況などを、思い出して、自分なりに何かを解決したい、そんな心になって。

 そしたら、小学生の頃を書くことになった。自殺を思った原因・遠因も、必然、書かねばならなくなった。

 なぜ「ねばならない」のか? なぜ・どんな時に、自分は自殺を考えたか、それを確かめるためだ。そのためには、客観的に── その時の情況を思い出し、書く── 書くということは、客観的になる、情況をつかむことに大いに役に立つ── 私は自分への「なぜ?」に、納得したかった。その答を、答とまでいかなくても、「私」というものをいわば分析したかった。

「答」は今、ここにこの自分がいるということに、すでに出ている。

 しかし… 朝から書き始めて、もう夕方だ。ちょっと、休もう。