でもこうして、「こうしてほしい、こうなってほしい」なんて言うのは、それも結局こちらの理想を押しつけることになるね。
そういうものを、私は拒んできたのに。自分がやられたらイヤなことを、自分がやっているようで、イヤになるよ。
私は、この「社会」に適応できなかった人間だよ。自分ではそう思っている。努力はしてきたつもりでいる。でもできなかった。できていたら── たぶんこんなこと書いていない。
それとも、うまく「社会」と折り合いをつけながら、それでもこんなことを書いたろうか。きっと、できなかった。そういう「私」だったと思う。
でも、こういう私だと気づかせてくれたのは、他でもない、この人間界、社会と呼ばれる人間の集団であってね。
その中で、「自分は異質だ」「普通ではない」ということを自覚してきた。
しかし、考えれば、皆、異質だったんじゃないか、と弱々しく思うよ。「一人一人が違うのだ」という見地に立てばね。
ところが、でもひとりだと心細くなる。
これは何なんだろうと思うよ。
「人間、ひとりひとり違うのだ」と頭で分かっていても、それを認めるということは… 心細くなるんだよ。
認めるということ、受け容れるということがなかなかできない。
「頭でわかる」ことと、感情、淋しいとかイラつくとかイジメてやろうとか、怒り、妬み、その捌け口… そういった精神的ところ、気持ちというものは異なるらしい。
これは、自分ひとりの中に、最低二人、ふたつの自分があることになるね。
大人たちも、逡巡したと思うよ。いや、していてほしいよ。
「これは間違ったことだ」と思っても、それに従ってしまうとしたら。上からの命令、これに反抗したら自分が苦しくなる。
でも、従っても苦しい。その苦しさを忘れるために、また自分を誤魔化す。そんな自分に、自分をてなづけようとする。そうして、もう一方にいた自分を抹消していく。
そのような「自分とのつきあい方」が、きみたち子どもにも、また周りの人間に向けられて。
そうして、それが今の「社会」をつくる、一つの因になっていると思うよ。
人とつきあう前に、自分とのつきあい方がある。人に接する前に、自分と接する自分がある。人と話す前に、自分と話す自分がいる。
私の反省は(私たちの、とは言えない)、この自分と、うまくつきあえなかった… いや「うまく」とかではないな、… いや、私は私とやってきたんだが、この気持ちと身体でね… はたして、うん、これでよかったのか、とよく考えてしまうんだよ。
よいも、わるいも、なかったとは思えるのだけども。