子どもたちへ(9)

 でもこうして、「こうしてほしい、こうなってほしい」なんて言うのは、それも結局こちらの理想を押しつけることになるね。

 そういうものを、私は拒んできたのに。自分がやられたらイヤなことを、自分がやっているようで、イヤになるよ。

 私は、この「社会」に適応できなかった人間だよ。自分ではそう思っている。努力はしてきたつもりでいる。でもできなかった。できていたら── たぶんこんなこと書いていない。

 それとも、うまく「社会」と折り合いをつけながら、それでもこんなことを書いたろうか。きっと、できなかった。そういう「私」だったと思う。

 でも、こういう私だと気づかせてくれたのは、他でもない、この人間界、社会と呼ばれる人間の集団であってね。

 その中で、「自分は異質だ」「普通ではない」ということを自覚してきた。

 しかし、考えれば、皆、異質だったんじゃないか、と弱々しく思うよ。「一人一人が違うのだ」という見地に立てばね。

 ところが、でもひとりだと心細くなる。

これは何なんだろうと思うよ。

「人間、ひとりひとり違うのだ」と頭で分かっていても、それを認めるということは… 心細くなるんだよ。

 認めるということ、受け容れるということがなかなかできない。

「頭でわかる」ことと、感情、淋しいとかイラつくとかイジメてやろうとか、怒り、妬み、その捌け口… そういった精神的ところ、気持ちというものは異なるらしい。

 これは、自分ひとりの中に、最低二人、ふたつの自分があることになるね。

 大人たちも、逡巡したと思うよ。いや、していてほしいよ。

「これは間違ったことだ」と思っても、それに従ってしまうとしたら。上からの命令、これに反抗したら自分が苦しくなる。

 でも、従っても苦しい。その苦しさを忘れるために、また自分を誤魔化す。そんな自分に、自分をてなづけ・・・・ようとする。そうして、もう一方にいた自分を抹消していく。

 そのような「自分とのつきあい方」が、きみたち子どもにも、また周りの人間に向けられて。

 そうして、それが今の「社会」をつくる、一つの因になっていると思うよ。

 人とつきあう前に、自分とのつきあい方がある。人に接する前に、自分と接する自分がある。人と話す前に、自分と話す自分がいる。

 私の反省は(私たち・・の、とは言えない)、この自分と、うまくつきあえなかった… いや「うまく」とかではないな、… いや、私は私とやってきたんだが、この気持ちと身体でね… はたして、うん、これでよかったのか、とよく考えてしまうんだよ。

 よいも、わるいも、なかったとは思えるのだけども。