ワカラナイ国の住人

 わからない。
 わたしには、わからない。

 どうしてここに灰皿があるのか。
 何故に、障子の戸があるのか。
 なぜ床の間があり、コンセントがあり、座椅子があり、わたしはここに座っているのか。

 そしてわたしにとって最大の問題は、なぜわたしはわたしであるのかということだ。

 そこで、「わからないものへ向かっていくことは、人間の証明と言えるだろう」と書いてみる。
 正確には、パソコンのキーボードのローマ字部分を指で押し、画面に日本語として出てきた文字を見ている。

「そして」と、また指を動かす。

「人間と呼称されるものには、そう呼ぶものの主体がある。
 その主体が『人間』をつくっている。
 その主体は人間自身、すなわち自己自身である」

 続けよう。

「その人間をつくる自己自身を知っている者は少ない。
 知ったつもりになっているだけである。

 それなのに、自分はこうなんですよ、と他者に明言して憚らない。
 他者と関わる以上、自分を開示する必要が生じるからだ。

 この頭の中を開示するにあたって、少し、言葉の定義をしよう。
 『自分』とは、自と他を『分け』たところから出来上がる意識であり、その意識の別名である。

 他がなくては、『自』が存在しないところにあるのが、自分。集団の中、あるいはひとり、頭の中で、他者を介して生じた想念の中から、文字化されたものが『自分』である」

「自己とは、他と分けられる前に存在するもの。
 既に存在していたもの。
 集団の中にいようが、孤独の中にいようが、意識しようがしまいが、あってしまう存在そのもの」
 と、定義しよう。

「自我というのは、否定の精神から生まれるもの。
『それは違う』『自分はこう思う』と、ある対象に対して異を唱えたいとして、自分(この時、まわりには他者がいるから、自己ではない)の中からシャシャリ出てくるのが『自我』。

 人間は、ひとりひとりのヒトの総称。
 そのひとりの人間の内部を、よくよく見れば、自己、自分、自我がある、ということ。

 この三種の『自』は、これを抱えた主体=ひとりの人間が置かれた状況と時間の中で、三者三様のはたらきをする」

 続けよう。

「してみれば、自己は、純存在、シンプルな、『ただあるだけの存在』である。
 ただ、ある。

 ある以上のものでも以下のものでもない。
 瓦や障子紙、石や砂のように、ただ『あるものとして、ある』

 その成分・構成要素が科学的・医学的に分かったとて、その成分・構成要素そのものが何故あるのかまでは、分からない存在。

 存在そのもの=ただあるもの=もの自体。
 これが、この世のありとあるものの、あるということの自明の存在理由、と言っていい。

 しかし、あるだけでは、許されなかった存在── それがヒトだった。

 目に見えるものは、手に取って、入念に調べ、道具を使い、火を発明し、目に見えぬ心の中にまで触手を伸ばした。

 だが、その手を伸ばす肝心な自己自身の正体は分からぬままだ。

 他者と交じり合っている時でさえ、自己は他者になれない。
 誰にもなれず、なにものかも分からぬ自己」

「心細い自己!
 斯くして、ヒトは、他者への同調意識を持つに及んだ。

 自己を立たせている自己を解せぬゆえ、なぜ自己が自己であるのかを解せぬゆえ、他者に、正体不明の自己を委ねたい願望がはたらいて。

 ひとりである心細さも大いに手伝って、わけのわからぬ自己を抱えた羊の群れに入り、他者の鏡に映る自分の姿を自己であるとしたかった。

 人間自身を、弱々しく弱体化させたもの── 奴隷願望、同調意識」

「おまえ自身がそれを払拭していかないと、何も変わらないよ」

 パソコンが言う。わたしがわたしに言う。

 わたし? わたしは…