デュルケームの古典「自殺論」(「世界の名著」中央公論社)の統計を見ると、自殺の原因で最も多いのが「精神異常」とされている。
しかし、異常とは、何だ、という話である。
私が自分を異常かなと感じるのは、自意識過剰な自分を意識する時で、その他には特に感じられない。
しかし、この自意識が、ヒトを自殺に追いやる寄生獣のようなものだと思っている。
死を考えるという時、私は、何を考えているのか分からない。自殺を考える時、死は、私の目標になっているが、その目標である死が、私には何も見えていない。
死というものが一体どういうものなのか、まったく分からない。それでも、いつか自分が死ぬということは分かっている。
すると、死は、「わたしが死です」というふうに、ひとりでそこに立っていることができないものだろう。
それを見る、他者なくして、ひとりで在ることができないのだ。
つまり「私」がいなければ、私がそれを見ようとしなければ、私の死は、無いということになる。
精神が異常をきたすというのも、それが、私の内部で波打っているかぎりは、異常ではない。
私が、およそ一般的でない言動をして、傍からあきらかに異常と認められて、異常は異常として初めて認知される。しかし、私が自分を異常でないと思う以上は、私は異常ではない。
この、他者が見る私と、私が見る私との間にあるものは…
「山田花子っていう漫画家は、25歳くらいで自殺した」と、職場で仲良くなった人から聞いた。
山田さんは喫茶店でウエイトレスのバイトをしていたのだが、突然解雇されてしまった。
山田さんは、シャッターの閉まった、誰もいない喫茶店の前にいつまでも立って、また雇ってほしい、と訴え続けた、ということだった。
この話を聞いた時、私はたまらない気持ちになった。
何か、自殺をできる人の心が、あまりにも象徴的に、映し出されているように感じられて。
山田さんにとって、ウエイトレスというバイトは、ウエイトレスというバイト以上のものだったのだと思う。
喫茶店の店主がどう思おうと、山田さんには「生きる」上で大切な何かだったのだ。
閉ざされたシャッターは、この世との接点、交通を失わせる壁のように見えただろう。
そのシャッターの前から、立ち去ることなど、できなかったのだ。
作家やマンガ家、自己表現をする時間を多く必要とする人は、孤独だ。
漱石は、「わびしい作業」と言った。荘子は、「知恵を絞って何かをしようとすることは、自分を苦しめることになる。そのような人間は、天寿を全うできない」と言った。
だが、自己表現とは、その表現する自分に、「まわりから認められたい」という願望を内包する。
そして創作に携わる人間に限らず、自殺する人は自殺する。生きること自体が、自分を創作することであり、表現せざるを得ないものだからだ。
何に向けて?
周囲にいる人に向けて。そして自意識に向けて。ひとりでは生きて行けず、社会の中に自分がいる以上、その周囲にいる人によって、自分が自分である意識が生じ、その意識がなければ自分が生きている意識さえ生まれない以上、何か言い、行為をする表現をせざるを得ないからだ。
手塚治虫は、そのマンガ「火の鳥」の中で「ワタシハ、ニンゲンダ。ニンゲンダカラ、ジサツシマス」とロボットに言わせた。