(19)ふたつの舟

 夜の海だった。星がちらちら、自身の光に眩しそうに瞬きしていた。
 まんまるお月さんが、じっとこっちを見ている。
 その月の前を、長い尻尾の雲が2、3、魔法使いの乗った箒のように横に伸びていた。
 男は、岸辺を離れて小舟を漕ぎ出した。死にたかったのだ。

 もう、ほとほと人間がイヤになった。
 だが、人間のいない世界では、自分は生きられないことも知っていた。
 すると、もう自分はダメなのだ、この世に自分の生きる場所など無いのだ、としか思えなくなった。

 いろいろな職を転々とした後、これが最後の転職だ、と決めた仕事も、3日で辞めてしまった。
 生き甲斐が欲しくて、ボランテイアにも参加した。これは、2日で辞めてしまった。

「人のために何かしようなんて、ムリだったんだ」男は考えた。
「人の役に立とうなんて、自己欺瞞だった。自己正当化だった。俺は、ずっと自分をごまかして生きてきたのだ。もう、こりごりだ。死のう。なるべく、この世から遠くへ行こう。誰にも知られず、ひとり静かに。二度とこの世に浮かんで来ないように」

 誰の小舟か知らない。浜辺にあって、さっき盗んだばかりだったからだ。だが、そんなことは死んでしまえば、たいしたことではない。
「オレは何だったんだろう」男はまた考えた、「知らないうちに産まれ、生きていた。全く、わけがわからない。こんぐらかった人間関係ばかりの、こんな世界には、もう疲れたよ」

 男は、月と星の灯りを頼りに、沖へ沖へと漕いで行く。
 海は静かだった。厚い雲が月を通り過ぎると、世界がパッと明るくなった。

 月の光を浴びて、西の方に、小舟が浮かんでいるのが見えた。小さなひとが乗っている。あれは女だ。ひとりで、沖に向かって漕いでいる。

 男は、運命を見た気になった。ああ、あの女も死にたいのだ。オレは独りではない。嬉しいことだ、嬉しいことだ。彼女も、きっと独りぽっちだ。独りぽっちだから、死にたくなったのだ。
 知らせよう、彼女に。独りではないことを知らせよう。あなたは、独りじゃない。あなたは独りじゃない…

 彼女も、自分がイヤになったのだろう。話を聞きたい! 一体、何があったのか、どんなあなたが、あなたを苦しめたのか。そうだ、何も死ぬことなんかないじゃないか。
 一緒に、生きて行こうよ。手と手を取り合って、陸に戻って行こう。ぼくら、死ぬために出逢ったんじゃない。生きるために、出逢ったんだ。人間は、人と、生きるために出逢うんだ──

 さあ、ふたりで、助け合って、生きようよ。一緒に生きよう。死ぬまで、一緒に生きよう…
 男はせっせと、漕ぎ出した。女の舟に向かって、歯をむき出し食いしばり、手には血マメをつくり、全身は汗みどろになって。

 女は、近づいてくる舟の男を、うろんげに見つめていた。
「おおい!」男は叫んだ。「愛しているんだ! 愛しているんだ!」
 男は精一杯、女の舟に近づいた。精一杯だった。近づくだけで、精一杯だった。