喜びと怒り、哀しみと楽しさ、憂いと嘆き、移り気と執念深さ、なまめかしさと奔放さ、あけすけとわざとらしさ、この様々な人情の変化は、楽の音が笛のうつろな穴から流れ出るように、菌が地の湿りから生まれてくるように、夜となく昼となく、私の眼前に代わるがわる現われ出ながら、しかもそれがどこから生まれてきたのか、知る由もない。
ああ、さてさて、もどかしいかぎりよ。
朝な夕なに、自分のうちにこれを体験するのは、どこかにその根源があって、そこから生じてきているはずではないか。
もし喜怒哀楽の情をもたらす根源がなければ、自分という人間も存在することができないであろう。
逆に、もし自分という人間が存在しなければ、その根源から喜怒哀楽の情を取り出すものもないであろう。
とするならば、その根源と自分とは、至近の距離にいるはずである。
それにも関わらず、自分に喜怒哀楽の情をもたらす根源のありかを知る由もない。
そこには必ず真宰── 隠れた真の主宰者があるように思われるが、しかもその形跡を見つけ出すことは、まったく不可能である。
それが働きを持つことは、疑う余地のない事実でありながら、しかもその形を目に見ることはできない。
その事実は存在しながら、それを示す形がないのである。
そのことを、自分の身体で試してみよう。
私の身には、百の骨節、九つの穴、六つの内臓がそろっている。私には、いずれかの部分を特に親しみ愛するということはない。
きみはこれらを、一様に愛するのか、それとも特定のものだけを愛しようとするのか。おそらく私と同じであろう。
とするならば、身体のどの部分も、ひとしい価値をもつことになる。
もし、同じ価値をもつとすれば、身体の各部分は、ひとしく召使いの身分にあるということになるであろうか。
もし召使いばかりであるとすれば、命令するものがなくなり、統一がとれなくなるのではないか。
それとも、身体の各部分が、交替に君主となり、臣下になるとでもいうのだろうか。
そうではなくて、やはり真の君主、真の主宰者が存在するのではあるまいか。
そのありかを求めて、得られるか得られないかは、その真宰が存在するという事実とは無関係である。
── ごもっとも。真宰、真の主宰者は存在するね。存在? 目に見えないが。
神も仏も、人間がつくったものにほかならない。そこでは、人間は創造者、造物主だろう。
なぜ神がヒトガタであるのか? なぜ仏も? 人間が、自分の姿に似せたからにほかならない。
カエルが神をつくったならばカエルの形になったろうし、鳥が神をつくったならトリガタになっただろう。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。
それぞれに、神はある。真のもの、と言っていいかもしれない。ヒト個人個人の中に真実がある。それは個人に限ったもので、だからこの真実は一つでない。
でも、ところが、これらの真実、真のものをつくるものがある。
それを荘子は造物者、主宰者── 「真の」の形容も、もどかしい。「真の」といえば「真でないもの」が生まれる。「真の」なんて言いたくない。荘子は、何も言いたくなかった。
一と言えば二が生まれ、これと言えばあれが生まれる。言葉自体を、荘子が嘆いているのは、「荘子」にこれから出てくる。この文章にはないが…。
この筆者は、言葉を嘆く前に、「(まことの)主宰者が見えない」ことをもどかしく、嘆いている。その存在があることに疑いの余地はない。が、それを証明することは、何としても不可能であるということが…