斉物論篇(十)

 詭弁学派のうちには、まず指という個物の存在を認めたあとで、指が指でないことを論証しようとする者がある。

 しかしそれは、最初から指という個物を越えた一般者から出発して、そのあとで指が指でないことを論証するのに及ばない。

 また、まず馬という個物の存在を認めたあとで、馬が馬でないことを論証しようとする者がある。

 しかしそれは、最初から馬という個物を越えた一般者から出発して、そのあとで馬が馬でないことを論証するのには及ばない。

 先に述べた、無差別の道枢どうすうの立場からみれば、天地は一本の指とも言えるし、万物は一頭の馬であるとも言えるのである。

 ── ふうん。うん、詭弁はずるいわな。理論武装は、好きでないよ。知識も、あまり欲しくない。知っていて、悪いことはない。でも、もう特にいろんなことを頭に詰め込もうとは思わない。

 知ろうとしなくても、知れるものは知れる。それは向こうからやって来て、自然にこちらの内に入り込む。こちらにも、アンテナ、嗅覚のようなものはあるが、それは自分に備えたいと思って備わったものではない。

 性能は、個々人によって異なる。それは生来、どうしたわけか、体内に埋め込まれた遠い記憶のようにも思える。各々に備わった記憶が、一人一人の生き方、人生模様の土台をつくっているような気もする。

 かてて加えて、「今」を生きている真っ最中の今も、どんどん記憶に上乗せがなされる。記憶で、もう容量はパンパンではないか。

 疲れる。もう、疲れたくない。

 自己に、そうさせているのは自己自身…

 計算、打算。相手をこうしよう・ああしようと、自分の思惑通りに動かそうとして、恣意のかたまりであることを恥とも思わず、そうして「世を渡る」のが当然だとさえする者もいる。

 そのような人にとっては、詭弁も何でもないことかもしれない。

「まわりがこうなのだから、自分もそうする」。そのような生き方は、恐ろしいことだ。

 論破したから勝ったとか、されたから負けたとか。笑ってしまう。楽しい笑いではない。なんでこうなるんだろう、という、対立を求める人間の、普遍性が感じられて。

 ここで「荘子」の言う「一般者」とは何を指すのか。

 指や馬、それが「ここにある」という事実を、ただ見つめる。指や馬、その存在を見つめる… それについて、ああだのこうだの、思考を立てない。

 何も考えず、ただ見つめているだけで、一本の指は天地にも通じるし、一頭の馬が万物であるようにも見えてくる。そのような者に、詭弁者は及ばない。

 作為をしない。あるものを、そのまま認める、受け容れる。そこから出発すると、馬は馬でなくなり、指は指でなくなり── 「道枢」の立場に立つ。

「一般者」とは、その道枢の立場から見れば、その立場に立った者も、そこら辺の小石や砂粒、指や馬と同列の、「一般」なのだ… と、この文面からぼくは解する。まちがっているかもしれないが。