それにしても、荘子とは何だったのかと思う。
宗教のように「これをせよ、あれをせよ」と言わず、哲学のように忙しく論じ立てることもなく、さらさら流れる水のように生きた人、とでもいうのだろうか。
孤独だったろうと思う。弟子はいたようだが、この「荘子」を読むに、「うちの師はいいことを言っているのになぁ!」とでもいう、世に認められない荘子を嘆いている節も、なくはないようにも感じられる。
そもそも、荘子は言葉自体を嘆いていた。戦乱の世にあって、「こっちが正しい」と言い合う諸子百家を、ほとんど憐れみをもって見ていたのではないか。
そしてなぜ人間は… と、この世の事象だけを見るに留まらず、真理・真実、まことのことわり、といったものに、目を遣っていたのではないか。
荘子、よく自殺しなかったな、と、ぼくはよく思うこともあった。が、こうして「荘子」を書き写してみると、また違った感慨を持った。
荘子は、強い人… 強弱など無い、と言われそうだが、強かったな、と感じる。
そう、強さも弱さも、相対的なもので、単独であり得ないものだ。だから絶対のものでも真のものでもない。でも、荘子、強かったな、という思いに打たれる。
こんなこと言っても、どうにもならんのだけどもね、と言いながら、まことのことわりを説いていた人。死と生は同列である、この根源的なことをこの世の万物に照らし、すべては無差別であると言い切った人。
生ばかりを美化する(それは現代も変わらない)当時の風に流されず、死をみつめることの大切さを説いたため、「死の哲学者」などと呼ばれてしまった。
荘子を初めて読んだ時、ぼくは友達を見つけた気になった。
「何もない部屋にはよく陽が入る」と、虚無を是とし、その死の際には「何もしなくていいよ。天には星があるし、地には虫たちもいるし」などと言って、葬式をしたい弟子たちを拒んだ。
「荘子は気分で読むもので、実践には向かない。あんな生き方はできないよ」という人もある。
そうだろうか。キルケゴールは「人間は気分である」という。その気分… 気の動き、心の動き。変化し続ける、人間の動き。個人、自己の内の動き。
その動きを細部に、こまかく観察すること── もし人間、人類、人間として生まれた集団として、その歴史に「戦争」の二文字をなくす、残さぬよう、できるとするなら、個々人がこの自身の心の変化、運動、止むことなく移ろう感情、怒り、哀しみ、せつなさ淋しさ、憎しみ、愛情、それらのものを細部に見つめること── が、始発点のように思われる。
そこから、人為から成る、あらゆる事象が生まれると思えるからだ。
いつまで続けられるか分からないが、「荘子」の写経とそれについての自分の感想を続けてみよう。