いつか荘周は、夢の中で胡蝶になっていた。
そのとき私は喜々として胡蝶そのものであった。
ただ楽しいばかりで、心ゆくままに飛びまわっていた。
そして自分が荘周であることに気づかなかった。
ところが、突然目がさめてみると、まぎれもなく荘周そのものであった。
いったい荘周が胡蝶の夢を見ていたのか、それとも胡蝶が荘周の夢を見ていたのか、私にはわからない。
けれども荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるはずである。
それにもかかわらず、その区別がつかないのは、なぜだろうか。
ほかでもない、これが物の変化というものだからだ。
── 有名な、「胡蝶の夢」。
そう、たとえば、親しいひとの死の報せを受けた時、少なくとも私は信じられないと思うだろう。
が、それは確かなことだった。事実なのだとする。
すると、しばらく時間がたって、はたして、あの一緒にいて楽しかった時間── あのひとがいたということまでもが、夢だったような気がしてくるだろう。
また、今、もう会えないということが、夢であるようにも思えてくるだろう。
何も、これは死に限ったことではあるまい。
別れ。別れというものは、きっと、そういうものだと思う。
あのひとがいた、でも自分はいる、という…。