斉物論篇(二十七)

 いつか荘周わたしは、夢の中で胡蝶こちょうになっていた。

 そのとき私は喜々として胡蝶そのものであった。

 ただ楽しいばかりで、心ゆくままに飛びまわっていた。

 そして自分が荘周そうしゅうであることに気づかなかった。

 ところが、突然目がさめてみると、まぎれもなく荘周そのものであった。

 いったい荘周が胡蝶の夢を見ていたのか、それとも胡蝶が荘周の夢を見ていたのか、私にはわからない。

 けれども荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるはずである。

 それにもかかわらず、その区別がつかないのは、なぜだろうか。

 ほかでもない、これが物の変化というものだからだ。

 ── 有名な、「胡蝶の夢」。

 そう、たとえば、親しいひとの死の報せを受けた時、少なくとも私は信じられないと思うだろう。

 が、それは確かなことだった。事実なのだとする。

 すると、しばらく時間がたって、はたして、あの一緒にいて楽しかった時間── あのひとがいたということまでもが、夢だったような気がしてくるだろう。

 また、今、もう会えないということが、夢であるようにも思えてくるだろう。

 何も、これは死に限ったことではあるまい。

 別れ。別れというものは、きっと、そういうものだと思う。

 あのひとがいた、でも自分はいる、という…。