人間世篇(二)

 これに対して、孔子は言った。

「ああ、そんな調子でえいの国へ行ったら、お前はきっと刑を受けて殺されるだろうよ。

 そもそも道はひとすじのもので、ごたごたしたことを嫌うものだ。ごたごたとしていれば、自然に多方面に分かれ、多方面になれば心が乱れ、心が乱れることは心を憂えさせることになる。

 自分の心に憂いがあるようでは、他人を救うことなど、できるはずがないよ。

 昔の至人しじん── 道に達した人間は、まず自分の心に備わるところがあって、そのあとで他人の心にも備わらせようとしたものだ。

 自分の心に備わるものが確立していないようでは、乱暴者の行為にまで構いに行く余裕はないよ。

 それだけではない。お前は、徳というものがどのような弊害に流れやすく、知はどのようなところから出てくるかを知っているのかね。

 徳は名誉心に向かって流れやすく、知は競争心から生まれ出るものだ。名誉欲は互いを傷つけ合う元になるものであり、知恵は争いの道具になるものだ。

 だから、この二つのものは凶器である。人間の行ないを完成させるようなものでは決してない。

 それに、いくら徳が厚く、信義の心が堅いといっても、相手の気心が十分に分からないうちは、その相手と名声を争うようなことがあってはならない。

 まだ相手の気心も分からないうちに、仁義で相手を正そうとするような議論を、乱暴者の面前でまくし立てたのでは、せっかくの美徳を持ちながら、そのことが、かえって人から憎まれる元になる。

 このように、おせっかいで他人に迷惑を及ぼす人間を、災人さいじんという。

 他人に災いを及ぼすような者には、他人の方でも必ず災いのお返しをするものだ。お前もきっと他人から災いを受けることになるだろう。

 そのうえ、もし衛の君主が心から賢者を喜び、愚者を憎む人間だとすれば、今までに賢臣の忠言に従っているはずで、今更お前の進言を用いて、目先の変わったことをしようと思うはずもあるまい。

 だから、お前はただ何も言わないのがよい。何か言えば、必ず君主の方から、のしかかってきて、勝負を挑んでくるに違いない。

 こうなれば、相手を見るお前の目はくらみ、お前の顔色はむりに平静を装おうとし、口は心にもないことを言うようになり、態度は表面ばかりを取り繕い、心は相手に賛成するように傾いてゆくだろう。

 それは、火を消すために火を放ち、水を止めるために水を注ぐようなものだ。これを俗に、高い所に土盛りをするという。

 初めからこの調子のままで行けば、最後はどうなるか分かったものではない。

 もし、お前が相手の信用も得ていないくせに、あまり立ち入りすぎた忠告をすれば、きっと、あの乱暴者の面前で殺されてしまうだろう」

 ── うーん。何か世渡りの仕方を教わっているような気になるが、面白くないことはない。純な気持ちで、こんな師匠の言っていることを、まっさらな心、正しい姿勢で聞いてみたい気もする。

 可愛い顔回のことを思ってか、かなり真剣に孔子は旅への中止を説いているようでもあり、公正に、中立的な立場から、乱暴者への対し方を説いているようにも見える。

 乱暴者への対し方。これは難しい…。

 とまれ、新しい語り部による「荘子」。

 饒舌に語る孔子は、どのように道を説くのか、また「乱暴者への対し方」を何より私は聞きたかったが、はーん、という感じだった印象もある。

 続けてみよう。