孔子は答えた。
「およそ世の中には、心に戒めなければならない大事が二つある。その一つは命── 天命であり、その一つは義── 人間としての義務である。
子が親を愛するのは命であり、自然の道によって定められたものであるから、いつも心から離れないものである。
臣下が君主に仕えるのは義である。この天地の間で、君臣の義から逃れる場所はない。だから、この二つを、心に戒めなければならない大事というのである。
したがって、親に仕える子としては、どこにあっても親を安心させるのが、最上の孝である。君主に仕える臣下としては、どのような仕事であろうと選り好みしないで、これを果たして君主を安心させるのが、最高の忠である。
自分の心を主人のように大切にする者は、哀楽の情が代わるがわる面前に立ち現われても、心の安らかさを乱すことがないようにするものである。
したがって、もはや人間の力では、どうすることもできないことだと悟った場合には、運命のままに安んじて従い、哀楽の情に動かされないことこそ、最高の徳である。
人の臣下である者、人の子である者にとっては、どうしても、やむにやまれないことがあるものだ。
その場合には、与えられたままのことを行なって、自分自身のことは忘れるがよい。どうして生を喜んだり、死を憎んだりする閑があろうか。だから、あなたも心おきなく行かれるがよろしい」
── はい。と、なかなか、うなずけないものがある。ちょっとこの荘子、違うのではないか…
森さんの解説では、「この第九節をふくむ孔子と葉公子高の問答は、荘子学派のうちの左派の思想ではないか」としている。
なぜなら、「人力を越えた運命に直面した場合には、その運命に抵抗することなく、これに安んじて従うというのが、荘子の根本思想の一つである」からして、「もし子が親孝行に尽くし、臣下が君主に忠を尽くすことが天命・運命であるとするなら、すべての道徳を運命として是認しなければならないことになる」。
「これは大変なことで、」と森さんは続けられる。「もしこのことを是認すれば、荘子全体の思想が変質してしまう恐れがある。なぜなら荘子全篇に渡って、世俗道徳は否定されているからである。荘子にとっては、道徳は人為であり、不自然そのものにほかならない」。
そうだよ、この 九 は荘子ではないよ。
ここから、荘子はどこにも見当たらない。
孔子ならこういうことを平気で言うだろうけれど、荘子はこんなこと言わないよ…