恵子が荘子に行った。「人間には元来、情がないのであろうか」
荘子は答えた。「そのとおりだ」
「もし人間に喜怒哀楽の情がなければ、どうして人間ということができようか」
「自然の道が顔かたちを与え、天が身体のかたちを与えてくれている以上、人間であるというほかないではないか」
「これを人間と呼ぶからには、情がありえないはずはあるまい」
「君の言う情は、わしの言う情とは違っている。情を持たないとわしが言うのは、その人間が好悪の情によって自分の身を傷つけることなく、常に自然のままに従い、自然の生命のはたらきを人為的に助長しないことだ」
「だが、自分の生命のはたらきを助長するようにしなければ、自分の身を保つことはできないではないか」
荘子は、これに答えて言った。
「自然が顔かたちを与え、天が身体のかたちを授けてくれたのであるから、これをそのままに保てば、それでよい。ただ好悪の情によって、自然から与えられたわが身を傷つけないことだ。それが、ただ一つの養生法だよ。
ところが今、君は自分の心を外に向かわせ、自分の精根を使い果たし、樹木に寄り掛かっては、呻きにも似た苦しい声をあげ、机にもたれては、眠りにも似た瞑想にふけっているではないか。
せっかく天が君にその身体を選んで授けてくれたのに、君はそれを大切にしようとはせず、堅白同異の論などに夢中になり、世間の名声を得るという不自然なことをしているのだ」
── 荘子の言う「情」とは、どんな形であれ「その形である身体」に余計な人為をはたらかせないこと、その身体で充分であるのだから、ということだろう。
が、恵子は「その身体を(健康に)保つためには、人為にたのまなければならないだろう」と言う。
ここはちょっと、ぼくが体調を壊した時に行く整体の施術と被る。その整体をする人は、特に何もしないのだ。文字通り「手当て」、足首や横隔膜、腰の骨辺りに手をそっと当てているだけ。力を入れられたり、強引なことは一切されない。これで全く、体調が良くなるのだから不思議だ。
この整体の考えのようなものは、「人間には自然治癒力がある。こちらは、ただその手助けをさせて頂くだけ」というもので、「何もしない」のが基本のようなものだ。
ヤバそうな宗教、いかがわしい霊感商法にも通じそうだが、本人、至ってフツウの人で、変質者的なところは全くない。予約時間に行くと、お客さんと彼の楽しそうな笑い声が施術室からよく聞こえてくる。
一時間位、「手当て」をしてもらうと、帰り道、自分の歩幅が大きく、足や身体全体が軽くなっている。ぼくのツレアイが10年位前にこの医者(?)を知り、持病持ちの彼女もしんどい時はお世話になっている。
何なんだろう、と僕も思うが、彼女の言葉を借りれば、「まあ、身体自体が、ふしぎなものだから」となる。
手を当てるのも人為だろう、となりそうだが、「何もしない」のが基本であるのだから、無為と言えなくもない。
自然治癒力を助長しようとする「情」が恵子の言う「情」であるなら、この整体は荘子の言う「情」と逆のことをしているだろうか。
それとも、「そのままである身を、そのまま保てばよい」というのだから、「何もしない」ということは、そのままであるということだろうか。
何にせよ、尊重すること── この身を傷つけるようなことをせず、「この身であることで、すでに完全なんですよ」と、その整体から言われている気がする。もちろん、荘子にも。