大宗師篇(十二)

 こんどは、子来しらいが突然、病気になった。息もあえぎあえぎのありさまで、今にも死にそうである。

 その妻子は子来の周囲をとりまき、泣きわめいていた。そこへ子犂しりが弔問に来たが、このありさまを見て言った。

「しっ、あっちへ行きなさい。造化者を驚かしてはいけない」そう言ったあと、入口の戸のそばに立ち、子来に話しかけた。

「偉大な造化者よ。いったい彼はお前を何に変えようとし、お前をどこへ連れて行くつもりなのだろう。お前をねずみの肝にでも変えるつもりか。それとも虫のひじにでもするつもりだろうか」

 すると、子来はつぶやいた。

「父母が子に命じたときは、たとえ東西南北のいずれであろうとも、ただその命令のままに従って行くものだ。まして天地陰陽の造化者が人間に下す命令は、父母の命令どころではない。

 いま造化者がわしを死に近づけようとしているのに、もしこれに従わなかったら、わしは強情者になるだけだ。造化者に何の罪があろう。

 もともと天地の自然は、わしをのせるために身体を与え、わしをはたらかせるために生を与え、わしを楽しませるために老年を与え、わしを休息させるために死を与えてくれるのだ。

 もし、わしの労役である生をよしとするならば、当然わしの休息である死をよしとしなければなるまい。

 いま鋳物師いものしの親方が金を鋳ろうとする時、るつぼの中の金が飛び出して『自分はどんなことがあっても鏌鋣ばくやの名剣になりたい』とねだったとすれば、その親方はきっとこれをふらち・・・な金だと思うだろう。

 同様に、おこがましくも人間の形を与えられておきながら、『どこまでも人間でなくてはいやだ。いつまでも人間でなくてはいやだ』と言い張ったとすれば、造化者はきっとふらちな人間だと思うだろう。

 もし天地が人間をつくりだす大きなるつぼ・・・であり、造化が偉大な鋳物師であるとするならば、その鋳るがままにまかせておけばよく、何にされようとかまわないではないか。もし死を与えられたら、安らかに眠りにつき、生を与えられたら、ふと目を覚ますまでのことだ」

 ── いやいや、子来まで病気になってしまった。でも子来は死に安んじようとしている。

 死に安んじる── 死の中に安むことは、ない。死に際して、死に安んじようとするんだな。

 生に安んじていたように。

 生死は同列、同一のもの、いのちのおわりとはじめ。一体の、ひとつ。

 荘子の世界観、世界、造物者に観じ魅入られ、それを観じ魅入った荘子の、真骨頂のような一篇に見える。

 こころ、やすまるよ。