応帝王篇(五)

 ていの国に、季咸きかんという神巫しんぷ── 神がかりのみこがいた。

 人間の死生存亡や禍福、寿命の長短を予知することができ、その年月日までピタリと言い当て、まるで神業のようであった。

 鄭の国の人々は、自分の死ぬ日を予言されることを恐れて、この神巫に会うと、あとも見ないで逃げ出すありさまであった。

 ところが列子は、この神巫を見て、すっかり心酔してしまい、帰ってきて壺子こしに話した。

「私は初め、先生の道こそ至上のものだとばかり思っておりましたが、いま先生よりも、さらにすぐれた道があることが分かりました」

 すると、壺子は言った。

「わしはお前の道のうわべだけは教えてやったが、まだ道の内容については何も教えていないよ。それなのにお前は、わしの道をすっかり知ったつもりでいるのかね。

 いくら雌鶏めんどりが多くても、雄鶏おんどりがいなければ、卵はかえらないものだ。いくら道のうわべだけ知っていても、肝心の内容を知らなければ、何にもならないよ。

 そんな未熟な道しか知らないくせに、それを世間に誇り、人々に信じさせようとするから、神巫に見透かされて占いが的中するのだよ。ためしに一度、その神巫を連れてきて、わしの運勢を見させるがよい」

 ── すごい能力をもっていたとしても、それを人に知ら示す行為の浅はかさ。今までも、このようなお話は幾度もあったが、今回は連載形式の少し長い物語風に書かれている。

 列子は、以前「逍遥遊篇」に「風に乗ってひょうひょうと生きた」かのように描かれていた登場人物。「だが、この列子も『風』という他物に依存している」というふうに厳しく断定されていた。

 列子は、紀元前400年頃から約150年間のあいだに現われた「諸子百家」の一人で、それはそれは孔子の儒家、老子荘子の道家、「性善説」の孟子、「性悪説」の荀子等々、多様な思想家が存在した宝庫のような時代といわれる。

 なぜそんな時代が訪れたのか? 国内の競争・勢力争いからの戦争、強大国が弱小国を支配するようになれば、それまで弱小国で為政に関わっていた者はあぶれ、失業する。

「就職浪人」の数は夥しく、かれらはまた雇われるべく「政治論」「経済政策」を各々引っ提げ、説いて回った。戦国時代は無政府状態でもあるから、思想の自由があり、勝手なことが言えるので、そこに様々な思想が一度に起こったという。

 そんな時代にあって、荘子はどう見ても奇異だ。「自然にまかせる」「差別はあってはならない」などという考えなんか、制度や法律をつくる政治家そのものの仕事を否定するようなものだったろう。為政者に、雇われるわけがない。

 この「荘子」の書も、おとぎ話じみたことばかり書かれているし、でもそれが荘子の思想であると同時に、生き方であったのだと思う。

 考え方と生き方が離れていたら、その考え(思想)は机上の空論、うわべだけのものにすぎない。荘子は、自分に正直に生き、…もし「誠実」というのが、自己への正直さを基本に他者と向き合うことであるなら、この荘子という人は信のおける、素敵な人だったのではないかと想像する。

 大きな、芯のある人。そんな「人」の書物が今も、その数は減っているかもしれないが、幾世紀も越えて、読まれ続けていることが嬉しい。

(参考文献「中国文化と日本文化」森三樹三郎、人文書院)