「ツンデレなんて、自分がなぜこうなっちまったのかを考えようともせず、相手に八つ当たりするだけの蛮行だよ。
サルとちっとも変わらない。
何がそうさせるのか、肝心なところに目を向けようともしないで、流されているだけなのさ。
おっと、ごめんよ。…いや、おまえに謝ったんじゃない。サルに謝ったんだよ。
サルの世界だって、ヒトと同じ集団社会だ。
でも、こいつが親分だって、かれらは納得して従い、暮らしているよ。
自然な秩序を保ってね。
人間は、どうだよ。
なんでこいつがボスなのか、わからないまま従って、だいいちボス自体が、黒子に操られているカラクリ人形みたいじゃないか。
こんな三文芝居に慣れすぎちまったから、『無思考型人間推進計画』がどんどん進んでいくんだよ」
老婆はそう言い、むっつり黙り込んだ。
城の中だ。暖炉が、燃えている。
僕は、ソファーベッドに横になっている。
僕は、なんでここにいるんだろう?
薄い夜空に、鬱蒼とした葉々が黒くそよいで、風に流れていたのは覚えている。
その木立の向こうに、小高い乳房みたいな丘が見えた。
あの丘の上に、尖った塔が聳え立っているのを見たんだっけ。
月あかりが射し込んで、けもの道があの塔に繋がっているのを僕は見た。
それから僕は、踏み倒された雑草やら朽ちた枝の上を、泣きそうになりながら登っていったんだ。
そうだ、僕は森の中に彷徨っていた。
死にたかったのだ。
やっと就職できた一流会社、誰もが羨むリーディング企業への内定通知。
あれは、親を喜ばせたものだった。
誇らしげに、僕もちょっと胸を張って通勤を始めたものだった。
でも、あんな偽善者の集団だとは思わなかった。
上のヤツには目を笑わせておべっか使い、下のヤツには人が変わったように鉄面皮だ。
同期のヤツらは、親しげに友達ヅラしていたけれど、隙あらばケ落として、自分がノシ上がるんだってコンタンがミエミエだったよ。
信じられる人間なんか、一人もいやしなかった── そして、あの女!
僕が間違っていたのか?
そうだ、僕が間違っていたんだ。
信じられる人間なんか、求めちゃいけなかったんだ。
みんな、競争して、足を引っ張りあって生きてんだ。
それが当然のことなんだ。
僕は、そぐわなかったんだ。
人がふつうに吸っている空気を、僕は同じように吸えなかった。
みんなが当たり前に生きている世界に、僕は生きることができない。
「そう思いつめて、ここに来る人間が結構いてね」
ふにゃふにゃした口が頼りなげに動き、でも確固とした口調で、老婆が喋っている。
牛みたいにでかいテーブルをはさんで、向こう側に座っているのが見える。
先端のしおれた黒いトンガリ帽子の下に、パーマがかった灰色の髪が垂れ、身をくるんだ黒いマントが裾を広げている。
「私はお前のような人間がいてくれることが嬉しいよ。
この世は、確かにおかしくなっているよ。
環境は破壊され続け、人は自分のことしか考えず、身勝手になる一方だ。
そんな世界についていけず、ここに来るお前みたいな人間が、私は大好きでね。
せっかくだから、教えてあげよう。
この世はね、操られているんだよ。
この世をね、牛耳ろうとするヤツらがいるんだよ。
そいつらは大富豪でね、どんな強国の大統領も、そいつらには頭が上がらない。
言うことを聞くしかないんだ。
でないと、政界から消される。
あいつらは、世界を一つの方向に持って行こうとしているよ。
みんなが同じ方向を向いていれば、支配し易いからね。
自分で考えることをせず、まわりに同調する人間ばかりをつくろうとして、実際その通りになっている。
この世界を、生きにくいと感じるヤツは、自殺するようにもなっている。
あいつらは情報操作と心理学に長けていてね、こういう世界にすれば、人間を支配できるってことを知っているんだよ。
自分で考えることができているって?
ちょっとお待ちよ。
一般の人間どもが考えることといったら、イイ物を食べたいとか、イイ服を着たいとか、イイ女・イイ男とつきあいたいとか、そして親になれば、子どもをイイ学校に行かせたいとか、イイ所に就職させたいとか、イイ人と結婚してほしいとか、せいぜいそんなもんだよ。
この『イイ』は、ぜんぶ、自分で考えたことじゃないんだ。
すり込まれた価値観の上に成り立つ、できあいのものなんだよ。
その一定の価値観に適応できず、そこから外れてしまう人間は、変人扱いされることになっている。
お前のような人間は、異端者となって、生きにくい世界につくられているんだよ」
老婆はそう言って、くっくと笑った。
彼女の背後に、暖炉が夕焼け色して燃えている。
白い天井に、その影がゆらゆら踊っているのが見えた。
壁には、シカだかクマだかの剥製が二、三、眼を黒光りさせて、こっちをじっと見つめている。
「このインターネットもね、」と老婆はスマホを取り出し、
「結局は広告のメディアでね、とんでもない金が動くんだよ。
いろんなモノを買わせ、『イイ』モノにはよけい金がかかるようになっている。
そうして一般庶民がクリックし、支払った金は塵も積もって山となり、あいつらのもとにチャンと還元されるようになっている。
YouTubeやブログ、小説投稿サイトなんかも、根本は変わらない。
大衆があたかも自由に自己表現できる場となっているが、PVの数や評価ばかり気にしている人間がほとんどだ。
そんな他人の目を土台にして、何か考えてみたところで、本当に自分で考えていると言えるかね?
最初から、まわりに迎合しているだけじゃないか。
どうしたらウケるかって、そこから始めるなんて、自分の足でなく他人の足で歩こうとしているようなもんじゃないかね?」
わし鼻を高らかに上へ向かせ、ふいに老婆は口に手をあて、キャッキャと笑った。
「私はね、お前のことをよく知っているんだよ。
あのメンヘラのツンデレ女上司から、ほとんどイジメられているだろう?
本人にしてみれば、その意識もない。
サルだからな。や、失礼。
でもあの女は、お前のことを好いてもいるんだよ。
お前もおぼえているだろう、いつか帰りのバスで一緒になった時、お前を見るあの目から♡マークが飛び散っていたのを。
それなのに、どうして職場では、お前に冷たく当たるのか?
あの女が部長になったのは、会社が社会的体裁をつけるためだった。
誰でもいい、女性を役職につけときゃよかったんだよ。
カラッポな、形だけの立場だ。
男女平等も、人間均一化に向けたシステムの一環だからね。
立場が人間をつくるのは本当さ、彼女はそのテーサイのために、自分自身もカラッポになっちまった。
彼女は、心にあいた穴を埋めるために、何かが必要だった。
そこでお前の登場だ。
お前はじゃがいもみたいな顔をしているから、なにか人を郷愁に誘うムードがある。
そこに彼女は否応なく吸引されちまう。
あの女は、とうに自分が忘れるべくして忘れた大切なものを、お前を見るたびに思い出すハメになった。
それが何なのか、彼女にも分からない。でも懐かしい、大切なものだったことは分かる。
彼女は、自分のカケラを見るようにお前を見ていたよ。
そしてそのカケラは、この世で生きるために、捨てなければならなかったものだ。
捨てなければ、彼女は今この地位にいないのだからね。
すると、職場でのお前の存在が、彼女には耐え難くなった。
要らぬことを想起させ、自分を混乱させる、災厄の根源だとさえ思っているよ。
そして放っておけない。
お前が好きだからね…
だが、お前を好きにさせた正体を、あの女は永遠に考えようともしないだろうよ」
「これから僕は、どうしたらいいんでしょう?」
僕は情けない声で訊いていた。
「好きなことをすればいいんだよ」
老婆は驚いたように言った。
「好きになることが、ヒト一人一人に備わっている生来のちからなんだよ。
お前は絵を描くのが好きだろう?
誰に、好きになれと言われたわけでもあるまい。
この好きになる素晴らしい性能を、生かそうとするどころか、屈折させ、挫折させるように、この世は仕組まれているのさ。
二十歳の頃、絵描きになりたいと言ったお前に、「そんな甘いもんじゃない、定職に就け」って親から否定されたろう。
あの女も、ほんとはお前が大好きだ。
でも、お前を好きになることは、自分の今までを否定することになる。
彼女は、あれでも頑張って働いてきたんだよ。
みんな、操られているんだよ。教育の成果も大きいね。
一流校に行く、一流企業に行く、いっぱい金を稼げる。それがイイんだってね。
何百年もかかって、つくり上げられたシステムさ。
あのツンデレ女も、いい犠牲者だよ。
ところがお前は、まだ洗脳されていなかった。
お前がこの世を生きづらいと感じ、くるしく、ふかく悩むことになっているのは、お前が独立した、自立した人間だからなんだよ。
今の職場は、いいきっかけじゃないか。
お前はスバラシイ大企業に就いたが、合わなかった。
あの部署が、世界全体の縮図のように見えたんだろ。
一をもって万を知る、本質を見抜く目は、アーティストに必須要素だよ。
イケてるよ。
さっさと会社なんか辞めて、大好きな絵を好きなだけ描けばいいんだよ。
お腹が一杯になるわけでもないのに、描きたい絵が描けたら、幸せだったろう?
洗脳され切った一般人のウケなんか狙わず、お前は描きたい絵を描くんだよ。
その絵は、人が忘れ、捨ててきたものを想起させ、人の心をほんとうに惹くようになるだろう。
まわりに惑わされるんじゃないよ。
お前自身から遠くなるのは、やめるんだ。
自分に帰ることだよ。
太古の昔、ケモノとヒトが仲良く共存していた頃にまで、お前、帰れたら最高だよ。
まだ、あいつらの手垢のついていない時代だ。
細胞は憶えているよ、そうやってヒトは進化してきたんだ。
くれぐれも、お前、自分が自分であることを嘆くなよ。
まわりのことなんか気にせずに、ゾウのように堂々と行くがいいよ」
「でも、会社を辞めたら、僕は親不孝者になります。
せっかく喜んでくれた就職先を、辞めたなんて言えません」
僕は涙を浮かべて言った。
「それに、どうせお金を稼がなきゃ生きていけないんだ。好きなことして生きていけるものか…」
「煮え切らない男だねえ。
命は、お一人様限定なんだ。
親は親。お前はお前の命を生きるんだよ。
仕方のないやつだ。
辞めたくないなら、じゃあ髪を伸ばしな。
しばらく、また悩むんだろ。
憂鬱を楽しみな。
前髪なんか、鬱陶しいほど伸ばしてやって、職場のヤツらがお前に仕掛ける憂鬱を楽しみな。
憂鬱を楽しめる人間ほど、強い人間はいないよ。
何にせよ、お前の自由だ。
続けたいんなら続けてみな。
人間はもともと自由だったんだ。
だが、この森に一度来た者は、また来ることになる。
忘れそうになったら、お前はまた自分からここに来ることになるよ」
うつらうつらと、僕は少し眠ったようだった。
目を開けると、まだ暖炉が燃えている。老婆がまだ座っているのも見えた。
「お婆さん、あなたは誰ですか」
「私はジャコウってんだ。
ロスチャイルドやロックフェラーと懇意だったもんでね、だから知っているんだよ。
金で買えるモノを十二分に支配した人間が、それだけじゃ飽き足らず、目に見えないヒトのココロに触手を伸ばし、ほんとうに世界をモノにしようとしているってことを。
まったく、欲望が外に向かうと、ろくなことになりゃしない!
お前は、自分の内に向かうんだよ。
そして、そこから水滴が自身の重みで落ちるように、絵を描いていくんだよ。
いいかい、お前のするべき仕事、生業は……」
また目が覚めた。
僕は自分のアパートの寝床にいた。
いつもの天井と、古ぼけたカーテンが見える。
なんだ、夢だったのか。
つまらない物語だ。
でも、よく見るな、同じ夢を。
洗面所で顔を洗い、鏡を見た。何も変わっていない。
いつもの僕だ。
あれは確かにくだらない夢だろう。
でも、くだらない夢を信じてみるのも、僕の自由だろう。
信じないのも自由だ。
でも、もうやめだ。
自分の自由に対する責任は、自分でとってやる。
それがきっと、生きるってことなんだろう。
── もう、肩まで髪が伸びていた。
僕は背広に着替えた。
退職願の入ったカバンを下げて、いつもの通勤電車に向かって歩く。
朝の光がきらきら道を照らして、眩しく見えた。