年齢は分からない。20代後半のような気もするし、40手前のような気もする。
見た目は、可愛い。茶髪で、ふっくらした髪型と、ちょうどいい体形。
愛嬌があって、性格も良さげだが、したたかそうな眼つきが光る時もある。
彼女が、ほぼ私の担当のようになっている。
単なる偶然なのだが、その美容室に行くたびに、彼女が私の頭を刈るのである。
彼女は犬を2匹飼っている。柴犬らしい。
私は鏡の前に座るたびに、「ワンちゃん元気ですか」と訊く。
彼女はいつも笑って「元気です」と言う。そして犬の近況を話し出す。
その顔は愛らしく、犬を思う優しい気持ちが自然にこぼれ落ちてくる。
その笑顔を見て、単純な私は喜ぶ。
たまに彼女はハサミの手を止めて、
「うちの犬、こうやってお尻をわたしに寄せてくるんですよ」
と、身体を私の肩口につけてくる。
私は恍惚とする。セーター越しの胸のふくらみを感じながら、
「ああ、愛されているんですねえ、可愛いですねえ」と笑って応える。
彼女は私に好意をもっているのだろうか。離婚したという話も聞いたし、子どもが2人いることも話してくれた。
会話が弾み、「爬虫類も好きなんです」と彼女は言った。「ヘビとか。カッコいいなって思うんです」
まるで私は試されているようだった。
< あなたがヘビを好きなら、きっとうまく行くわよ、わたし達。>
暗に、こう言われているような気がしたのだ。
犬猫の話はいっぱいした。お互いに、話していて、心から笑い合えた瞬間もあった。
彼女と私は趣味が合うのだ。笑うツボ、空気の感じ方、料理の好み…
何を取っても、われわれはつきあったらうまく行くだろう。
問題は、ヘビだった。私の家にはヤモリが雨戸に住んでいるし、ミミズも、庭を掘ればよく出てくる。しかし、ヘビというのは…
率直に書こう。
ヘビを、私は嫌いでない。ただ、いくら男女別のフロアであっても、われわれの会話はあちらの女性客たちにも聞こえていたと思うのだ。
女性の中には、当然ヘビが嫌いな人もいるだろう。
この会話は、その婦人たちを不快にさせる。
この話題は続けるべきではない── 私は、そう判断したのだ。
口ごもった私に、彼女は気まずそうな顔をした。
「やっぱりダメだったか」とでも言いたそうに。
ああ、違うんだ、爬虫類、ほんとうは私も好きなのだ。いや、嫌いでないのだ。
ヘビの良い所を、きっと私は、いっぱい話せる。
ただ、この場では、この話題を弾ませたくなかったのだ。
数秒後、痛恨の思いが私を捕えた。
あっちのフロアの女性客を気にしたばっかりに、たったそれだけのために、私は彼女との熱い関係に冷水を浴びせてしまった。
しかし、次の数秒後、私を捕えたのは、思いがけず彼女への嫌悪だった。まわりをはばからない、彼女の大胆さだ。
私は、彼女との世界の進展を止め、あっちのフロアを重んじた。
しかしこれは、人間として当然の、周囲への気配りではないだろうか。
彼女は、ふたりの世界のためなら、まわりのことなどどうでもいいと思えるのだろうか。
いや、彼女の優しさは、本物であるはずだ。
恋は盲目、ピンクの杖をつく。
周囲への配慮を忘れさすほど、彼女は愛に飢えているのだろうか。
突然、「彼女と私がうまくいくわけがない」との想念が私に生じた。
私は小心者だが、この小心をこそ愛したいとする人間だ。
大胆な彼女とは、決定的に違いすぎる…
だが、その一瞬後、また別の想念が私に生じた、「いや、男と女は、お互いに無いものを補い合って生きて行くものだ」
会計を済ませる。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
礼を言って、言われて、店を出た。
今度行ったら、家にヤモリがいる話をしよう。
誰に聞こえようと構いはしない、あの、窓ガラスにビタッと張り付く、愛くるしいヤモリのことを。
ヘビについても、勉強をしよう。なぜ彼らは足も無いのに前へ進むのか?
1ヵ月後、私の髪は伸びるだろう。
彼女に欠点があるとしても、私にだって欠点がある。
お互い、助け合って、生きるのだ。
そして秋には、ふたりで動物園に行くのだ。
心から笑い合って、手と手をとり合って、ふたりのお子さんも、引き受けよう。
彼女と私で、幸福そのものの家庭を築くのだ。
ああ、もう、これだけで胸がいっぱいだ。
もう充分すぎる。もう、あの美容室はやめて、新しい店を開拓しよう。