自分の弱さについて(2)反芻

 ソクラテスは、「自分の内に学問がある」と言った。これは、外側に学ぶものは無く、自分の中をよく観察することで「学び・気づき」があるということだろう。
 すなわち、自分が何か感じている、その感じている自分をよく見なさい、ということになるだろう。

 私が「弱い」と自分を感じる時、必ず自分以外の人間と比べていることが分かる。
 しかもその人間の内実も知らず、「普通は」という基準を持ち出し、「普通はこんな些細な事で落ち込まないだろう」という所に落ち込んで行く。

 しかし、確かに私は小さな事で傷つき、すぐ落ち込んだ気になってしまうのである。
「おはようございます」と挨拶をしても、無視されたことを、思い出してみる。挨拶など、空気を吸うように当然のことだと自分は思っている。
 しかも、どうせ挨拶するなら、笑顔で、おたがいに気持ち良く、という執着めいた気持ちも持っていた。

 この「執着」する自分を観た時、挨拶を返されなかったことで、なぜ私はあれほどショックを受け、食欲さえなくしてしまったのかが、分かる気がする。
 相手への期待。ひとりよがりの願望。つまり私は、自分で自分を傷つける刃を、執着をもった時点で、内包していたのである。

 挨拶をしたい私は、そういう私であり、挨拶をしたくない相手は、そういう相手なのだ。よくここで、「挨拶もできないなんて、かわいそうな人」と言う場合もあるけれど、そういう見方もしないようにしたい。
 ただ自分が自分であるように、相手も相手であるというだけで、それだけでいいのだ。と思いたい。

 無視された時、私はかなり動揺した。その動揺に身も心も乗っ取られて、憂鬱な時間を過ごした。だが、それは結局、自分で自分を苦しめただけだった。相手のせいでも何でもないのだ。

 私が悔いるのは、全身が動揺に奪われた時、そしてそれからの時間、それを「観る」自分が不在だったことだ。
 思い通りに行かなかったからといって、ではその「思い」とは何だったのか、その思いを抱いた自分とは何だったのかということを、私はおきざりにして、ただショックを受けたことだけに一生懸命だったのだ。
「わからない」人ばかりを見て、「わかっていない」自分を見ようともしなかった。
 自分に必要だったのは、人を見る自分自身、自心をよく観る、「観じる」ことだった…