僕は切に知りたい。
1日に、パチンコ屋で17、8万もの大金を得た経験のある人が、どうやって、その場に再び行かぬことができるのか。
「依存症になるには、他に理由があるんですよ」
椎間板ヘルニアになった時、世話になった整体師が言った。
自分はダメな人間であるという意識。
これは、1つの郷愁のような、僕が僕である基礎、土台、すなわち他に何の代替えもできない、自分だけの大切な基盤のように思える。
僕は、自分がダメであるという意識以外に、僕の価値を見い出せない。
この意識が喜び、すなわち僕が満たされるのが、あの銀玉の回る場所ではないか… それで、ほとんど本能的に足が向きたがるのではないか?
〈 理由は、できるだけいっぱい挙げるがいい。どれか1つは当たるだろう 〉
自分を追い込もうとして、自分を痛ぶるために、あの銀玉を打ち込んでいた… そう思おうと思えば、思える。
まだ、貯金がある。まだお金があるから、自分はダメなのだ。
お金を失くして、自分を追い込めば、〈窮鼠猫を噛む〉〈火事場のクソ力〉が発動して、まっとうな人間になれるのではないか。そんな幻想を抱いた時もある。
転職を繰り返す時、無職の時間がある。その時、こんなふうに考えてもいた。
この仕事は自分に合う、合わぬなど贅沢を言っていられず、熱烈に、まじめに、しかしそれが常識であるように、並々ならぬ気概をもって、生きることができるのではないか…。
あるいは(いや、コジツケであることは分かっている)、「妻のために」あの場所へ行きたいとも考えた。
子育ても一段落し、妻も無職、僕も無職という状況の時、一日中顔を突き合わせているとあまり良い感じがしないのだ。
彼女だって、ひとりになることは大切だろう… などと考えた!
「無職」の自意識。妻には「主婦」という肩書きが通用しそうだが、僕は男であって、平日の昼間に、外に出て隣人と顔を合わせたりすると、ひどく後ろめたい、恥ずかしい気持ちになった。
働いているんですよ、というところを近所に思ってほしくて、そのために背広を着て家を出、パチンコ屋に行ったことさえあった。
家にいたくない。お金を失くせば、まじめに働く、一般市民になれるだろう、等々、様々な理由をこじつけたが、
〈 単純な中に真理がある 〉
これが、そのまま、ほんとうなのではないだろうか。
ただ、私はパチンコが好きなだけではないだろうか。
こうして深夜、この手記を進めているのも、夜、眠らずにいれば、昼間に寝ることができ、あの場所へ行かないで済むという、自己防衛のつもりなのだが…
〈 生来の性質は変えられないが、習慣は第二の性質をつくる 〉
僕の習慣。僕の習慣。思考回路に、あるのではないだろうか。あるいは、記憶に…。
それが現実の実態、つまり習慣そのものなっているのではないだろうか?