「ところで、きみはなぜ戦争に反対なのかね? 人道に反する? ばか言っちゃいけない、戦争も人の道ではないか。人の道は、戦争だったろう。それを否定する根拠は何かね? きみに、否定させる根拠を明らかにするだけの具わったものがあるというのかね?
かのドイツの哲人であれば、こう言い出したかもしれない。然り! 全てをよしとせよ!然りとせよ! 受け入れよ、受け入れよ!と。
万象は、全て必要だから現われ出る。不必要なものなど、この世に一切ない。この戦もその一環だ。めぐりめぐって、やがてあの到達すべき世界へ往く。
信じがたい跳躍力をもった人間が、これを跳び超え、あの環その環をさらに跳び越え……」
「いやいや、要するにみんな、自分の力を試したいんだよ。己が身のやった成果、成し遂げた結果だけを見たいんだよ。平和であることはみんなの成果だ。でもみんなじゃ、ダメなんだ。その中に自分が埋もれてしまうからね。埋もれたものに、誰が勲章を与えるね? 多くの人が、自分のやった功績が認められることを望み、生きていた証しを残したいと願う。
それは人間以前の、生き物としての本能だ。他の生き物は、副葬品など求めはしないが…。
あの哲人は、確かに跳び越えて行った。プライベートでどんなに疲れても、パブリックな場所での自分を紛い物でない自己とした。しかしそんな、タフな人間ばかりでないよ。
支那の国には、怠惰の文学がある。デカダンだね。そもそも、本を読むのも一種のデカダンだろう。知識を詰め込み、ない頭を何かで埋める。美味しい珈琲の淹れ方を知って、人生を豊かにしようとでもいうのに似ている。
一方で、朝から晩まで働きづめのリンゴ農家の人を私は知っている。彼は農閑期になるたび、出稼ぎだ。生活と生きる、生きると生活がブレなく直結しているような人だった。
彼は、あるとき自分のことを『俺はバカだからよお』と笑って言った。しかも、何の屈託もない、素敵な笑顔で! 私は、そんな彼を見て、このような人たちが戦火に巻き込まれることがたまらないんだよ。
考えてみれば、戦火の燐寸を擦った人も、一個のデカダンと化していたんじゃないかね。生きるため以外に、何かしたかった。しないではおれなかった。
ああ、無為無為!生きるため以外に何もしないこと、何も事を為そうなどとしない人、そのような人こそ偉人に見えて仕方ない。… もっときみも、議論などふっかけず、もっと怠惰でいいんじゃないかね」