(3)糸を張るもの

 私は、風を読む。
 西から風吹けば、東へ舞うことを知っている。
 風にのって、こちらの木からあちらの木へ移る。

 また、この西風が、北風と交じることも知っている。
 すると私は枝から足を離し、風に身をまかせる。

 南へ行き、東南、西北へ行く。
 縦横無尽に私は糸を吐き、私は私の住居を作る。

 私のしごとは、自営業。
 ここが私の住処であり、客を待つ店舗でもある。

 客が来た。
「すみませーん」彼は謝っている。「すいませーん」

「どうしたね」私は、すり寄って行く。
「すみません、助けて下さい。糸に、からまってしまいました」客が言う。

「ほうほう、それはそれは。
 今まで、そなたは数々の悪行をしてきたろう。
 その報いだよ。
 今までしてきた、そなたの悪行を、ここで懺悔なさい」

「そうすれば、助かりますか」
「うん、助かる」
「では、申し上げます…、…ん、…ない。特にわたし、悪いこと、してきた覚えがありません」

「ほう」
「親の言いつけは守ってきましたし、生産活動もして、この世界に貢献してきました。
 みんながしていることを、してきました。
 競争社会、弱肉強食、その名に乗っ取って、しっかり、働いてきました。
 わたしが悪いことをしたとしたら、この世界全体が悪いことをしてきたことになります」

 糸を吐くものは、ふっとため息をついて言った。
「その世界全体に、そなたは流されてきた。
 それは悪行にならんかね。
 この星には重力、万有引力があることを知っているかね。

 この星に生きるものは、この星の中心に向かって、引っ張られている。
 この星も生きていて、その上にわれわれは立っている。
 中心に向かう力によって、初めて立っていられるのだ。

 生命あるものは、本来、外に向かうものではないのだよ。
 そなたは、自己の中心、内部へもっと向かうべきだった。
 外界に、引っ張られすぎたのだ。
 そなたには、そなたに授けられた、そなたにしかない徳があったのに。

 徳は、生命の別名だよ。
 自分の徳を活かさず、まわりに迎合ばかりしてきたことは、そなたの生命を粗末にしたことにならんかね。
 おのれの自然に反し、軽薄にまわりに同調し、すなわち悪に加担して。
 これを罪と呼ばず、何と呼ぶ?」

「でも、でも、みんなが、みんなが、そうしているんですよ」

「みんなが!
 ならば、みんなが死ねば、おまえも死ぬのか?
 おまえは生きたいと思うだろう。
 まわりとおまえは違うのだ。
 違うのに、それを認めず、なかよしクラブのざれごとを続けてきただけなのだ。

 みんなに生命が与えられているのではない。
 ひとりひとり・・・・・・に、それは与えられている。
 おまえはおまえ自身をムダにした。
 生命と、それをとりなす時間のムダ使いをしてきたんだよ。

 この糸にからまるまで、自分が死ぬことをリアルに考えてもみなかったろう。
 想像の貧しさゆえ、なまくらにひらひら飛んで、生き生きと飛んだこともなかったろう」

「…… たしかに、そうかもしれません。
 怠けていた、その罰で、わたし、このまま死ぬんですか。
 死んだら、地獄に落ちるんですか。怠けていたばっかりに」

「うん、死ぬよ。
 でも、安心おし。
 おまえは、よく自覚した。
 生命の正しい使い方を知らずに死ぬのと、知って死ぬのとは大違いだよ。

 おまえは、また生まれ変わるだろう。
 おまえはおまえの内なるはたらきに目を向けることを覚え、今度生まれる時はおまえ自身の中心に向かい、正しく生命を使うだろう」

「… そうですね、わたしは自分に重きを置いてこなかった。
 大切にしてこなかった。
 まわりにばかり、この意識を向けてきてしまった。
 払うべき代償ですね。払います…」

「では、よろしいか」
「はい。覚悟はできています」

 糸をつくるものは、その壊し方を知っている。
 からまったものから、その糸を解きほぐし、その身を自由にした。

「ああ、また羽が動く!」
 ほぐされたものは、羽を広げた。
「今までと、まるで違う世界に見える。すべてが輝いて見える… これが自由なんですね!」

「そうだろう、そうだろう」
 糸を吐くものは、うなずいた。

「これが変化というものだ。
 死ぬほどの苦しみを味わわないと、気づかないのがタマにキズ。
 磨けば光るのに、それをしない者が多すぎる。

 それはおまえに、すでにあるものだ。
 そしておまえにしか手に取れず、磨けもしない。
 死期に及んでからじゃ、すべてが遅すぎることに気がついたかね」

「ええ、なんだか、もう生まれ変わったような気分です…
 でも、あなた、わたしを食べなくていいんですか?
 母から聞いたことがあります、空中の見えない糸にからまると、恐ろしいものに食べられてしまう、と。
 あなたは、その恐ろしいものではないのですか?」

「おまえは良い子だね。
 いろんな教えを、忘れずに行くがいいよ。
 この糸にからまって、死ぬ間際になっても、悔い改めない意地っ張りが多い。
 そういう奴らの方が、よっぽど多いから、食糧には困らない。

 私の言葉をよく聞き入れたおまえは、現世でその生命、謳歌なさい。
 次世では、もっと穏やかで住みやすい、闇のない太陽の世界に転生するだろう」

「… あなたは、何者で?」
「私は、悪魔とも神とも呼ばれているよ。
 この姿から、気味悪がる者も多い。
 だが、善悪の分別は、わきまえているつもりだよ。
 私に備わったこの徳を、ただこうして形にしているだけだよ。

 自分である由を知って、初めて生者は自由になれる。
 生命は、自由になるためにあるのだよ。
 さあ、おまえは、おまえが生きていることをよく自覚した。
 そのまま飛んで行くがいいよ」

 蝶は、さわさわと羽を広げた。
 力強く羽ばたくと、その羽はいっそう綺麗な光沢を帯び、それを見る者に深い慰めを与えた。

「ほんとうの善は」
 と、糸を張るものは考える、
「おのれの徳をはたらかすことだ。
 それを見る者、まわりの者に、迎合することじゃない。
 見よ、あの蝶を。
 自分の美しさも知らず、ただあった自分の羽をはためかせているだけだ。

 私なんか、小さなものだ。
 善悪にとらわれ、来た客に自覚を売り物にする小店主だ。
 この世は、私なんかの及びもつかぬ、大いなる糸がからみあっている」