私は、風を読む。
西から風吹けば、東へ舞うことを知っている。
風にのって、こちらの木からあちらの木へ移る。
また、この西風が、北風と交じることも知っている。
すると私は枝から足を離し、風に身をまかせる。
南へ行き、東南、西北へ行く。
縦横無尽に私は糸を吐き、私は私の住居を作る。
私のしごとは、自営業。
ここが私の住処であり、客を待つ店舗でもある。
客が来た。
「すみませーん」彼は謝っている。「すいませーん」
「どうしたね」私は、すり寄って行く。
「すみません、助けて下さい。糸に、からまってしまいました」客が言う。
「ほうほう、それはそれは。
今まで、そなたは数々の悪行をしてきたろう。
その報いだよ。
今までしてきた、そなたの悪行を、ここで懺悔なさい」
「そうすれば、助かりますか」
「うん、助かる」
「では、申し上げます…、…ん、…ない。特にわたし、悪いこと、してきた覚えがありません」
「ほう」
「親の言いつけは守ってきましたし、生産活動もして、この世界に貢献してきました。
みんながしていることを、してきました。
競争社会、弱肉強食、その名に乗っ取って、しっかり、働いてきました。
わたしが悪いことをしたとしたら、この世界全体が悪いことをしてきたことになります」
糸を吐くものは、ふっとため息をついて言った。
「その世界全体に、そなたは流されてきた。
それは悪行にならんかね。
この星には重力、万有引力があることを知っているかね。
この星に生きるものは、この星の中心に向かって、引っ張られている。
この星も生きていて、その上にわれわれは立っている。
中心に向かう力によって、初めて立っていられるのだ。
生命あるものは、本来、外に向かうものではないのだよ。
そなたは、自己の中心、内部へもっと向かうべきだった。
外界に、引っ張られすぎたのだ。
そなたには、そなたに授けられた、そなたにしかない徳があったのに。
徳は、生命の別名だよ。
自分の徳を活かさず、まわりに迎合ばかりしてきたことは、そなたの生命を粗末にしたことにならんかね。
おのれの自然に反し、軽薄にまわりに同調し、すなわち悪に加担して。
これを罪と呼ばず、何と呼ぶ?」
「でも、でも、みんなが、みんなが、そうしているんですよ」
「みんなが!
ならば、みんなが死ねば、おまえも死ぬのか?
おまえは生きたいと思うだろう。
まわりとおまえは違うのだ。
違うのに、それを認めず、なかよしクラブのざれごとを続けてきただけなのだ。
みんなに生命が与えられているのではない。
ひとりひとりに、それは与えられている。
おまえはおまえ自身をムダにした。
生命と、それをとりなす時間のムダ使いをしてきたんだよ。
この糸にからまるまで、自分が死ぬことをリアルに考えてもみなかったろう。
想像の貧しさゆえ、なまくらにひらひら飛んで、生き生きと飛んだこともなかったろう」
「…… たしかに、そうかもしれません。
怠けていた、その罰で、わたし、このまま死ぬんですか。
死んだら、地獄に落ちるんですか。怠けていたばっかりに」
「うん、死ぬよ。
でも、安心おし。
おまえは、よく自覚した。
生命の正しい使い方を知らずに死ぬのと、知って死ぬのとは大違いだよ。
おまえは、また生まれ変わるだろう。
おまえはおまえの内なるはたらきに目を向けることを覚え、今度生まれる時はおまえ自身の中心に向かい、正しく生命を使うだろう」
「… そうですね、わたしは自分に重きを置いてこなかった。
大切にしてこなかった。
まわりにばかり、この意識を向けてきてしまった。
払うべき代償ですね。払います…」
「では、よろしいか」
「はい。覚悟はできています」
糸をつくるものは、その壊し方を知っている。
からまったものから、その糸を解きほぐし、その身を自由にした。
「ああ、また羽が動く!」
ほぐされたものは、羽を広げた。
「今までと、まるで違う世界に見える。すべてが輝いて見える… これが自由なんですね!」
「そうだろう、そうだろう」
糸を吐くものは、うなずいた。
「これが変化というものだ。
死ぬほどの苦しみを味わわないと、気づかないのがタマにキズ。
磨けば光るのに、それをしない者が多すぎる。
それはおまえに、すでにあるものだ。
そしておまえにしか手に取れず、磨けもしない。
死期に及んでからじゃ、すべてが遅すぎることに気がついたかね」
「ええ、なんだか、もう生まれ変わったような気分です…
でも、あなた、わたしを食べなくていいんですか?
母から聞いたことがあります、空中の見えない糸にからまると、恐ろしいものに食べられてしまう、と。
あなたは、その恐ろしいものではないのですか?」
「おまえは良い子だね。
いろんな教えを、忘れずに行くがいいよ。
この糸にからまって、死ぬ間際になっても、悔い改めない意地っ張りが多い。
そういう奴らの方が、よっぽど多いから、食糧には困らない。
私の言葉をよく聞き入れたおまえは、現世でその生命、謳歌なさい。
次世では、もっと穏やかで住みやすい、闇のない太陽の世界に転生するだろう」
「… あなたは、何者で?」
「私は、悪魔とも神とも呼ばれているよ。
この姿から、気味悪がる者も多い。
だが、善悪の分別は、わきまえているつもりだよ。
私に備わったこの徳を、ただこうして形にしているだけだよ。
自分である由を知って、初めて生者は自由になれる。
生命は、自由になるためにあるのだよ。
さあ、おまえは、おまえが生きていることをよく自覚した。
そのまま飛んで行くがいいよ」
蝶は、さわさわと羽を広げた。
力強く羽ばたくと、その羽はいっそう綺麗な光沢を帯び、それを見る者に深い慰めを与えた。
「ほんとうの善は」
と、糸を張るものは考える、
「おのれの徳をはたらかすことだ。
それを見る者、まわりの者に、迎合することじゃない。
見よ、あの蝶を。
自分の美しさも知らず、ただあった自分の羽をはためかせているだけだ。
私なんか、小さなものだ。
善悪にとらわれ、来た客に自覚を売り物にする小店主だ。
この世は、私なんかの及びもつかぬ、大いなる糸がからみあっている」