斉物論篇(十三)

 上古の人には、その知恵が、それぞれに到達するところがあった。

 その到達したところとは、どのようなものであったか。

 最も高いものは、「はじめからいっさいのものは存在しない」とするのであって、これは究極まで至りつき、すべてを尽くしたもので、もはや付け加えるべき何ものもない。

 これに次ぐものとしては、「物は存在するけれども、その物には限界── 他と区別される境界がない」というのがある。

 さらにこれに次ぐものとしては、「物には限界があり、物と物とを区別する境界はあるけれども、是と非との区別、価値の区別はまったくない」というのがある。

 もし是と非との対立、価値の区別が現われるところまでくれば、道の完全さがそこなわれることになる。

 道の完全さがそこなわれるところ、そこには物に対する愛欲が生まれる。

 ところで、今、道の完全さがそこなわれると言ったが、はたして道には完全と毀損きそんということがあるのだろうか。

 それとも、道には完全も毀損もないのであろうか。

 道に完全と毀損の区別ができるのは、たとえば琴の名手である昭氏しょうしが、琴を奏でる場合である。

 琴を奏でる以前の状態は、まだ道が完全な状態にあるときである。

 ところが昭氏が演奏を始めるやいなや、道はそこなわれる。

 昭氏がいくら多くの演奏を奏でたとしても、それは琴に秘められた無数の音の一部分でしかない。

 彼は琴を奏でるという人為によって、無限であるべき自然の道に限定を加え、これをそこなっているのである。

 道に完全と毀損の区別がないというのは、昭氏が琴を奏でないときである。

 このときは、無限である自然の道が、無限のままに残されているのであるから、完全と毀損との対立もありえない。

 ── まじめな荘子だ。

 無音の音。何も奏でず、ただそこにあるだけの琴を、楽しんだ人もあるという。

 何とも、楽しい。愉快な気持ちになる。「無限の音」が聞ける、ただそこにある琴から。

「物」について。「初めから、いっさいのものは存在しない」。このことについて、何も言い足すことはない、という。この知恵を「最上のもの」とここでは書かれている。

「物は存在するけれども、その物には他と区別される境界がない」というのは、わかるような、わからないような。単純に、何も考えずに見れば、わかる気がする。

「物には限界があり、物と物とを区別する境界はあるが、是と非との区別、価値の区別はまったくない」これも、単純にそのまま、字面通りに読めば、わかる気がする。

 物には限界があるが、物と物とを区別する境界はあるが、是非、価値の区別はない。

 道は無限であるという。物には限界がある。が、道には限界がない。

 これは、物としての寿命も含まれるだろうか。

 ソクラテスは、「どうも魂というのは、あるんではないか。でないと、どうもうまく行かん。おかしいではないか、でないと…」と、物としての肉体、物ではないはずの魂のようなものについて言及している。

 ブッダは、死後の世界について一言もいっていない。仏教の開祖といわれるが、かれはじつにリアリストであったと思う。ニーチェはブッダについて「衛生学ではないか」というようなことを言っている。

 議論、論理を重んじたはずのソクラテスが、晩年は宗教的なことを言い出したのは面白い。

 モンテーニュに言わせれば、「老齢によって、ソクラテスは晩年ボケていたのではないか」となる。その言葉は、あの不当な裁判に際し、正当を主張しなかったソクラテスの判断に向けられたものだったが、「肉体が滅んでも魂は…」というようなことを言い出したのも、あの毒杯を飲む前夜辺りだった。

 ブッダの「涅槃」も、死ぬことではない。死んだらば、涅槃に入った、ということもない。本人、死んでいるからだ。

 仏典で、一番弟子のサーリプッタが、「涅槃に入った!」というようなことを言い、これ以上ない歓喜に包まれた様子だった。モッガラーナが「それはどんなものだい?」と訊くと、全身これ喜びのサーリプッタは説明できず、ただ「入った」ことを喜んでいるだけだった… というような描写を読んだことがある。

 といって、いわゆる「悟り」(涅槃ニルヴァーナ)に入ったからといって、その状態が永続するわけでもない。

 暗い、真っ暗な森を彷徨い歩く者にこそ、燈明の明かりはよく見える、という。サーリプッタも、おそらくまた涅槃の中から脱け出て、また平常に、すなわち暗い世を生き、を繰り返し、死んでいったのではないかと思う。

 荘子はどうだろう。ただ淡々と、あたかも自然と同化して、のんびり魚釣りをして、生の時間を楽しんだかのように見える。生活のよすが・・・に、荘園で働いていたという説もある。

 何しろ「名を残さぬように」生きた人だ。孔子への反発もあったろうが…。どんな人物であったのか。生活形態、その人生自体は、この「荘子」を読んでこちらが迫っていくしかない。

「隠者として生きたい」とした荘子を、あばくようなマネはしたくない。ただ、想像するだけである。いかにも、荘子らしいではないか? 想像する、無限の「人間」「万物」、道に通じるあらゆる道を、うつつのように夢みるようで。