大宗師篇(四)

 だから、たとえこのような聖人が戦いを起こして国を滅ぼすようなことがあっても、それは必然の運命に従ったまでであり、私心によるものではないから、それによって人心を失うことはない。

 逆に、万世ののちまで恩沢を及ぼすようなことがあったとしても、それは無心によるものであり、ことさらに人を愛しようとする心から出たものではない。

 したがって、ことさらに万物にその思い通りにしてやろうと念願するものは、真の聖人ではない。ことさらに人に親しみを持とうとするものは、真の仁者ではない。

 ことさらに天の時に従おうとするものは、真の賢者ではない。利と害とを区別し、それが通じて一であることを知らないものは、真の君子ではない。

 世間の名声を求めて行動し、自己を失うものは、真の益荒雄ますらおではない。

 すべて、わが身を滅ぼし、わが真実のありかたを失うものは、いたずらに他人のために奉仕するものであり、人の主となりえないものである。

 かの狐不偕こふかい務光むこう伯夷はくい叔斉しゅくせい箕子きし胥余しょよ紀他きた申徒狄しんとてきなどの人々は、いたずらに他人のことに奉仕し、他人の楽しみに奉仕することを楽しみにしたものであり、みずからの楽しみを楽しんだものではない。

 ── 「聖人が戦いを起こし…」のくだりは、ちょっとムッとしたが、そこは墨子のことを思い出しもした。墨子一派は、世のため人のために尽くし、最終的に「戦争にあたって弱者の地方」(国内の戦争だったから地方)に味方し、その地方を守ろうとした。

 かなり優秀な防御、守る戦略に長けて、成果をあげたらしい。そして平和的な集団であったはずの墨家が、皮肉にも「戦争における防衛軍」的存在になり、やたら戦地に駆り出され、結局それで金をたらふく儲けてしまい、それが堕落に繋がった… とかいう話がある。

 だいたい強国、大国は悪いことをするものだから、もしそうでない弱小国の「聖人」が戦争を起こしたとしても、ひょっとしたら正当化されるのかもしれない。にしても、「必然の運命」に従うなら戦争もOK、とでもいう冒頭の言葉は、ちょっといただけない。

 とにかく「名声を得ようとするな」ということだとは思う。

 最後の「奉仕」のくだりは、ソウダソウダと思った。人の主になんかなる必要はないが、やたら「人のために」をベースに、何かをする人がいる。された側も、それでいいなら問題ないが… これもケースバイケース、障害をもった方やお年寄り、手助けが必要な方には当然なことで、いちいち「ために」を持ち出す必要はない。

「子どものために」と、親があれこれするのも、やりすぎては結局、反抗のタネをまく。基本は自分のために… いや、親が、ただ自分が安心したいだけだろう、「子どものために」なんて。

 しかしずっと気になり、書きたかったのは、荘子の言う「真の主宰者」「造物者」は「自然」であるとぼくは解釈している。このお話にある「聖人」、今までに出てきた「真人」は、その自然の道に従って生きた人をいうのだろう。

 が、その姿、自然をつくる真の造物者は、正体を見せず、不明なままなのだ。

 これはどうも、あのソクラテスの、「ほんとうに大切なものを私は知らない」、その「大切なもの」と、どうも被って見えてならない。ソクラテスも、それを知ることがなかった… 知を越えたもの、それが知を越えたものであるがゆえ、「無知であることを知っている」と言わせた、その知ることの無かったものが。

 どうも荘子の「造物主・主宰者」と、同一のようなものに思えてならない。