大宗師篇(八)

 舟を谷間に隠し、山を沢の中に隠しておいて、これで盗まれる心配はないと思うものがあるかもしれない。

 だが夜半に大力のあるもの── 時の変化が、これを背負って逃走する。愚かなものは、この事実に気づくことがない。

 大小のものをそれぞれ適当なところに隠しておいても、時の変化を免れることはできないから、やはり自分の手元から失われてゆくものなのだ。

 もし天下をそのままそっくり天下のうちに隠し、いっさいを自然のままにしておくならば、自分の手元から逃げてゆくこともありえない。これこそ全てのものに通ずる大きな真理である。

 無限の自然のうちから、たった一つの人間の形をかすめとってきたことにさえ、喜びをおぼえるのがふつうである。だが人間というものは、千変万化して極まりないものだ。

 もし、ただ一つの形だけに執着しないで、千変万化する形の全てを楽しむことにすれば、その楽しみも無限に続くことになろう。

 だから聖人は、何ものも失う恐れのない境地、いっさいをそのままに受け入れる境地に遊び、すべてをそのままに肯定するのである。

 青春をよしとし、老年をよしとし、人生のはじめをよしとし、人生の終わりをよしとする。

 このような境地にある聖人に対しては、万人はひとしく憧れの心を抱くであろう。まして、万物がそこに帰属し、すべての変化がそこから現われる根源の道こそ、万人の仰ぎとうとぶもの── 大宗師だいそうしではないか。

 ── 無から来て、無に遊び、無に帰る。それを言っちゃあ、おしめえよ。

 が、終わらないのだ。

 執着することは、己を苦しめる。執着は、何かを達成する踏み台にはなろうけれども、どちらかといえばそれは苦が多く、自分で自分を苦しめるに等しい行為と思える。その執心は、やがて他者にも、あまりよろしくない影響を及ぼすように思える。

 他者に悪い影響を及ぼすということは、やがて自己にも還ってくる── 他物である環境を壊したのが人類であるなら、この人類が環境によって壊される。自然の道理からすれば、当然の帰結… 指をくわえて見ているうちに、くわえる指もなくなっちまうのかな。

 前へ進め、前へ、前へ。その挙句が、このありさまか。立ち止まっては停滞と言われ、後ろを向けばネガティブだ何だと、うるさいよ。いや、うるさくも言われない、おいてけぼりにして、さっささっさと皆行くよ。

 進化も退化も、同じことか。時間差で、ツケがでかくなって返される。みかけの平和で、スマホなくして生きられない。よくできた世界だ! だれがつくったのかね。

 帰宅途中だよ。来た道を戻る途中。わたしゃ、下校途中のこどもだよ。まだ、親に何も返していない。そうこうするうち、迷い道。親の危篤も知らぬ、極楽とんぼ。

 いや、何もそこまで厭世しなくても? そうだね、せめて一人の自分、この生を道に沿えたいね。