大宗師篇(十八)

 子輿しよ子桑しそうは、友だちだった。

 あるとき、長雨が十日も降り続いた。子輿は、子桑が貧しいことを知っていたので、きっと苦しんでいるだろうと思い、飯を包んで持参し、子桑に食べさせてやろうと思いたった。

 さて子桑の門前までくると、琴を鳴らしながら、歌っているのか泣いているのか、分からないような声がする。

「このようなひどい目にあわせるものは、父であろうか、母であろうか、それとも、天であろうか、人であろうか」

 いかにも声を出すのが苦しそうで、調子を速くして歌を歌っているようである。子輿は内に入って問いかけた。

「お前さんは、どうしてまたそんな歌を歌っているのかね」

 すると、子桑は答えた。

「わしは、わしをこんなひどい目にあわせたのは、一体誰なのだろうと思案しているのだが、いっこうに思い当たるフシがない。

 まさか父母がわしの貧乏を願っているはずもなかろう。そうかといって天は差別の私心なく、いっさいをおおい、地は私心なくいっさいをのせているのだから、わしだけを差別して貧乏にしようとしているとも思えない。

 結局、誰がわしを貧乏にさせているのか、いくら考えても分からない。それなのに、こんなひどい目にあうのは、やはり運命のせいだというほかあるまい」

 ── あきらめ。諦念。これの、なんと心安んじられることか。

 物質的な窮乏、精神的な窮状も、このあきらめから、涙こそこぼすことがあっても、まだ気が軽くなるというものではないか。

 幸も不幸もない。

 あるのは、ただ… 何だろう?