子輿と子桑は、友だちだった。
あるとき、長雨が十日も降り続いた。子輿は、子桑が貧しいことを知っていたので、きっと苦しんでいるだろうと思い、飯を包んで持参し、子桑に食べさせてやろうと思いたった。
さて子桑の門前までくると、琴を鳴らしながら、歌っているのか泣いているのか、分からないような声がする。
「このようなひどい目にあわせるものは、父であろうか、母であろうか、それとも、天であろうか、人であろうか」
いかにも声を出すのが苦しそうで、調子を速くして歌を歌っているようである。子輿は内に入って問いかけた。
「お前さんは、どうしてまたそんな歌を歌っているのかね」
すると、子桑は答えた。
「わしは、わしをこんなひどい目にあわせたのは、一体誰なのだろうと思案しているのだが、いっこうに思い当たるフシがない。
まさか父母がわしの貧乏を願っているはずもなかろう。そうかといって天は差別の私心なく、いっさいをおおい、地は私心なくいっさいをのせているのだから、わしだけを差別して貧乏にしようとしているとも思えない。
結局、誰がわしを貧乏にさせているのか、いくら考えても分からない。それなのに、こんなひどい目にあうのは、やはり運命のせいだというほかあるまい」
── あきらめ。諦念。これの、なんと心安んじられることか。
物質的な窮乏、精神的な窮状も、このあきらめから、涙こそこぼすことがあっても、まだ気が軽くなるというものではないか。
幸も不幸もない。
あるのは、ただ… 何だろう?