斉物論篇(十七)

 およそ、道というものは、最初から限界のないもの、限定できないものである。

 ところが、これを言い表す言葉というものは、対立差別のあいだを往来して、絶えず揺れ動くものである。

 このために、言葉によって表現されるものには、限界があり、対立差別があることになる。

 それでは、その対立差別の例を挙げてみよう。

 左に対しては右があり、論に対しては議があり、分に対しては弁があり、競に対しては争がある。

 この八つの区別は、人間の性質に備わった働き── いわば本能的なものである。

 このように言葉というものは、ものの真相をとらえることができない。

 だから宇宙の外のことについては、聖人はこれをそのままそっとしておくだけで、これについて論じようとはしない。

 また宇宙の内のことについては、聖人は一応は論ずるものの、深く立ち入って議しようとはしない。

「春秋」は世を治めるための書であり、先王が記録したものであるが、聖人はその内容について議するものの、是非善悪の判定をしようとはしない。

 道をむりに分析しようとする者は、必ず分析し尽くすことのできない部分を残すものである。

 むりに弁別しようとする者は、弁別し尽くすことのできない部分を残すものである。

 それは、どのような場合をさしていうのであるか。

 聖人は道をそのまま自分の身に抱こうとするのに対して、俗人は道を分析して論ずることにより、これを他人に誇示しようとするものである。

 だから、私は言おう。

「いかに細かく分析して論じようとも、他人に真理をあますところなく示すことは不可能である」と。

 ── そう、言葉で、ほんとうのことは言えない。表現できない。

 こないだ、とてもとても悲しい出来事があった。これについて、書いたことは書いた。が、とてもじゃないが、たとえばブログに公開するとか、誰かに見せたいとか、そんな気になれなかった。

 書いた自分でさえ、見たくない。それを書いていた時、すでに、どんな言葉もそぐわないことは感じていた。それでも、気持ちを整理しようとして、その時、書こうとした。実際、書いたが、気持ちと言葉は、どうにも、まるで一致点をみなかった。

 近づこうとはした。あのひどく、もやもやした、気持ちに。

 が、それも無理だった。その時、近づこうとしたこと、それだけがほんとうのことで、その「気持ち」、あのとき抱いていた、「ほんとうの気持ち」(それが確かに、確かにあった)は、どんなに表現しようとしても、言い表すことはできなかった。

 表現されることを、それは拒んでいるようでもあった。が、その気持ちによって、その気持ちのために、私は、表現したくなったのだが。

 あの気持ちは、ほんとうだったと思う。今も、あのほんとうが、ある。時間がたって、いくぶん、軽くはなったが、今もあの気持ちを表現することはできない。

 これは、ほんとうのことだと思う。これは、表現できない。